公務員叩きについて

また繰り返しのネタになるが、どうにも腹が立つので。

テレビをつければ「公務員の無駄」を特集しており、車に乗ってラジオをつければコメンテーターが「公務員の削減が必要」と発言している。さすがにうんざりである。感情としてはともかく、私は公務員の削減という議論に説得力を感じたことは、ただの一瞬たりともない。その内容があまりに馬鹿馬鹿しいからである。

第一に、そこで言われる「無駄」が何を指しているのかの実態がよくわからない。言うのも疲れるくらい当たり前の話だが、まず公務員がなすべき仕事の量の総体というのがあって、その上でどの部署のどの程度の人員が必要だという試算を行ってから、「無駄」というものがはじめて確定できる。たとえば40年前に作った部署が、時代の変化で使命を終えたにも関わらず惰性で残っている、という具体的な話の中でしか、何が「無駄」なのかを理解することができない。ところが今言われている「無駄」というのは、「仕事もしていないのに多すぎる」という感情論の域を一歩も出ていないものか、個々の不祥事の事例や給料の水準や宿舎の贅沢さを問題にしたりという、何の根本的な解決にもならない瑣末な問題を過大に取り上げたものばかりである。公務員の数は先進国の中で最も少ないほうであるという、ネットで調べればすぐにわかる事実にほとんど触れられることなく、「無駄」「多すぎる」という掛け声ばかりが大きくなっている。

第二に前にも書いたことの繰り返しだが、常識論として公務員の人員は全体として増やす必要のほうが大きいのではないかとしか思えないのである。特に社会保障制度について言えば、制度が完備した1970年代はまだ家族や地域の相互扶助をまだ当てにすることができた時代であり、農家などでは高齢者でも年金に頼らず生活するという人が多く、仕組みも今よりもずっとシンプルであった。普通に考えれば、それから少子高齢化が急速に進み、国家の税金で運営されている制度が家族の中ににまで介入している今でも、同じ人員で社会保障制度が運営できる訳がない。かつて家族や地域、企業といった中間的組織が担っていた役割が後退している以上、それが公務員の業務として代替される必要性は高まっているはずである。

もし現在の日本社会が深刻な問題を抱えているとして、そうした社会を導いた最も可能性のある存在が誰かと問われるとしたら、それは誰の目から見ても小泉元首相を中心とした財界の指導者や経済学者である。考えてみれば彼らは、世襲的な政治家であり、年功序列・終身雇用のシステムで出世した企業経営者であり、大学に安定した職を確保している学者であった。その意味で、彼らに対して「自らは既得権益に安住しながら厳しい競争を国民だけに押し付けた」と公務員以上に非難の目が向けられてよさそうであるが、何故かほとんどそうなってはいない。もちろん小泉元首相らが悪いという単純な問題ではないが、彼ら(および彼らの路線を継承する政治家や学者)に目を向ける前に公務員が叩かれるという現象は、明らかに異常である。

では、なぜ公務員ばかりが叩かれるのか、繰り返しなるが、いま言える事を簡単に述べておきたい。一つは身も蓋もない理由で、公務員にとってもある程度想定内の「お約束」であり、国民とっては「安心して叩ける」存在だからである。組織的には官僚に近いはずのマスメディアも、歴史的に政治家や官僚といった「お上」を批判するのことを領分にしてきたことと、そして名誉毀損訴訟のリスクのある民間企業よりも平気で批判できるという利点によって、民間企業の不正を情報としては知りながらも公務員の批判に向かってしまう。そしてもう一つは、「平凡で安定した生活」が、今の日本社会では人々のルサンチマンの対象になってしまっていることである。厳しい競争にさらされていないこと、雇用の不安定性や老後の社会保障を心配しなくて済んでいること、そのことだけで公務員は「許せない存在」に映る。

・・・こう書いていても、今の公務員バッシングは不可解なところがあまりに多すぎる。もう少し考えてみたい。