必要なのは事業仕分けではなく増税政策

 昨日書いたんですが、今日に分割して加筆しました。

 ちなみに、「事業仕分け」についていろいろ批判も当事者を含めて出ているようだけれど、要するに税金を上げればすんでいた話なんだと思う。税金を上げればすむ話なのに、「いやそんなことみんなわかっているよ、でもそんな単純な問題じゃないんだよ」みたいに言う人がやたらに多いのだけど、やっぱり税金を上げれば済んでいたという、これ以上説明する必要のない単純な話でしかないのだと思う。

 誤解を恐れずに言えば今の日本にある大部分の問題は、消費税を15%以上にしていれば解消できた類のものだと思う。この単純な話を避けて、「利権の構造」をネチネチとほじくるような話は、一見真摯そうに見えるとしても、どこまで行っても芸能ネタの域を出るものではない。

 別に民主党は科学技術政策を軽視しているわけではなく、「世界のトップになることをあきらめた」わけでも全くなく、あるいはそういう趣旨の発言をしたとしても、全ては「財源不足の解消」のために苦し紛れに出してきた方便に過ぎない。税金を上げて財源にある程度の余裕があれば、当然無理に削減することもなかったはずである。財務省主導で「市場原理主義者」が仕分け人に入っているというのも、細かい経緯は政治ジャーナリストに任せるとして、「無駄削減」に最大限の能力を発揮する部署や専門家が重宝されているに過ぎない。

 振り子が極度にぶれる、一見無節操な世論にも見える最近の選挙で一つはっきりしているのは、「税金を上げない」と宣言した側が大勝していることである。今回「事業仕分け」の対象となる当事者たちも、自分たちの事業は国民のために絶対に必要だから維持のための増税は必要不可欠だ、という声を挙げたことが一度でもあっただろうか。むしろ、メディアの霞ヶ関批判に加担し、自分たちに配分される予算の少なさを「行政の無駄」や「官僚の利権」のせいにしてこなかっただろうか。だったら、教育や科学技術のための将来のための予算を削って、目の前の高齢者の医療や年金に当てるということは、当然受け入れなければいけない現実だろう。

 何だか訳がわからないのだが、財源不足の原因は「行政の無駄」や「官僚の利権」にあるに違いないという、得体の知れない全国民的な願望があって、それが小泉政権時代の経済財政諮問会議の経済政策であったり、今回の事業仕分けのような茶番劇を生んでいる。しかも、「全国民に公開している」というアリバイをつくることで、「何であの時に声を挙げなかった」という、反対者に文句を言わせないような仕掛けにもなっているから、かえって性質が悪い。

 勝間和代氏が国家戦略局ヒアリングで語った表現を借りれば、増税政策も「ボーリングの一番ピン」であって、「財源がない」という手足を窮屈に縛った状態では、ますます政策が国民の生活の必要性とは全く無関係の、財政の健全化を自己目的化したものになってしまうだろう。鳩山首相の「友愛」のスローガンも、「少ない財源の中で文句も言わずみんなで我慢して頑張ろう」という、内容的には戦時中のものと質的に大して違いのないものでしかなくなるだろう。

もちろん、予算配分を見直して無駄を徹底的に洗い出すことを一度大々的にやるというのは、あってもいいとは思う。しかし、その時期が今現在ではないことは、あまりに明らかだろう。本当は今からでも遅くはないと思いたいのだが、もう手遅れなのだろうか。

 
 ちなみに、昨日のを読み返すと年金生活者がガンであるかのような世代批判の書き方になってしまって少し反省しているのだが、趣旨はメディアや政治家が視聴率や投票率の高さを当て込んで、この層の利害関心をストレートに煽るようなものになっている傾向があって、それは少し問題ではないかということ。若年層の利害関心を煽ればいいということではなく、これからは否応なく年金生活者が世論の中心にならざるを得ないので、この層が納得するような増税政策や「成長戦略」を示していく必要があり、それは「無駄削減による財源確保」などよりは十分に現実的であると思う(というかそう思いたい)。