高級志向

最近日本社会のなかに「高級志向」が復活しつつあるように思われる。これは日本だけじゃなく、韓国や中国でも同じ現象が見られるようである。

90年代半ばには、バブル時代の記憶もあって高級志向はほとんど軽蔑の対象であった。それはとりもなおさず、不況で収入が頭打ちになって全員が「高級」になれるという神話を共有できなくなったこと、また高度成長以降に育った世代は必然的に上昇への意欲を失っていたからである。その代わりに価値を持ったのが、まさに「自分らしさ」「好きなこと」であった。

90年代半ばから公共事業は批判の的だったが、それは単に「無駄」というだけではなく、地方の隅々まで東京と同じ高水準の生活様式を広めようとする「高級志向」そのものにも向けられていたように思われる。その頃の公共事業を正当化する論理は「景気回復」という経済成長モデルであって、今のような「生活」の論理はあまり語られていなかった。

現在高級志向が高まっているのは、もちろん「景気がよくなった」からでは決してない。90年代半ばの「自分らしさ」「好きなこと」が、安定した経済力を大前提にしているという当然の事実が「格差社会」の中で暴露されてしまったということへの反省が一つにあるが、より重要なのは、高級志向が90年代までとは違って人々の劣等感や競争意識を駆り立てるものでは全くなくなったからである。

私の理解では、今はそうした劣等感や競争意識の対象が、一見ごく平均的な生活水準を送っている人々に向けられるようになっていることである。そのことの証拠が、2000年代以降に盛り上がった公務員へのバッシングであり、またネット上で見られる大手新聞・テレビなどのマスメディアへの暴露趣味的な批判であると考える。

そう言うと違和感を覚える人もいるかもしれないが、冷静に考えれば公務員も新聞記者も、日本社会における威信や収入の面でトップエリートというわけでは決してない。にも関わらず、「公務員年収600万」という数字が出てくると「たいした仕事もせずに贅沢だ」という感情が沸き起こり、ニュースキャスターや新聞記者から「われわれ庶民が」「市民の声を大事に」などと言われると、その口調そのものに傲慢さを感じざるを得ないようになっている。もちろん、公務員や新聞記者に対する批判は公共的な事柄に関わっているからでもあるが、それでも2000年代以降の彼らに対する粘着的とも言える攻撃の高まりは、そうした常識では片付けられない情念を含んでいるように思われる。

要するに、10年前は高級志向が「嫌味なこと」だったのに対して、今は「普通に生活している庶民」の顔をすることが「嫌味なこと」になりつつあるように思われるのである。これに比べると、「高級」なことは最初から手が届きそうにないものであるから、心理的に受け容れやすいと理解することができるだろう。つまり高級志向と言っても高級になりたいという上昇志向が強いわけでは全くなく、よく言われる「下流志向」とセットであると考えたほうがよい。問題は、10年前は高級志向の馬鹿さ加減をまだ笑えたのに対して、今の「普通の庶民」に対しては全く笑うことができず、ルサンチマンばかりが鬱屈してしまうことである。