必要なのは事業仕分けではなく増税政策
昨日書いたんですが、今日に分割して加筆しました。
ちなみに、「事業仕分け」についていろいろ批判も当事者を含めて出ているようだけれど、要するに税金を上げればすんでいた話なんだと思う。税金を上げればすむ話なのに、「いやそんなことみんなわかっているよ、でもそんな単純な問題じゃないんだよ」みたいに言う人がやたらに多いのだけど、やっぱり税金を上げれば済んでいたという、これ以上説明する必要のない単純な話でしかないのだと思う。
誤解を恐れずに言えば今の日本にある大部分の問題は、消費税を15%以上にしていれば解消できた類のものだと思う。この単純な話を避けて、「利権の構造」をネチネチとほじくるような話は、一見真摯そうに見えるとしても、どこまで行っても芸能ネタの域を出るものではない。
別に民主党は科学技術政策を軽視しているわけではなく、「世界のトップになることをあきらめた」わけでも全くなく、あるいはそういう趣旨の発言をしたとしても、全ては「財源不足の解消」のために苦し紛れに出してきた方便に過ぎない。税金を上げて財源にある程度の余裕があれば、当然無理に削減することもなかったはずである。財務省主導で「市場原理主義者」が仕分け人に入っているというのも、細かい経緯は政治ジャーナリストに任せるとして、「無駄削減」に最大限の能力を発揮する部署や専門家が重宝されているに過ぎない。
振り子が極度にぶれる、一見無節操な世論にも見える最近の選挙で一つはっきりしているのは、「税金を上げない」と宣言した側が大勝していることである。今回「事業仕分け」の対象となる当事者たちも、自分たちの事業は国民のために絶対に必要だから維持のための増税は必要不可欠だ、という声を挙げたことが一度でもあっただろうか。むしろ、メディアの霞ヶ関批判に加担し、自分たちに配分される予算の少なさを「行政の無駄」や「官僚の利権」のせいにしてこなかっただろうか。だったら、教育や科学技術のための将来のための予算を削って、目の前の高齢者の医療や年金に当てるということは、当然受け入れなければいけない現実だろう。
何だか訳がわからないのだが、財源不足の原因は「行政の無駄」や「官僚の利権」にあるに違いないという、得体の知れない全国民的な願望があって、それが小泉政権時代の経済財政諮問会議の経済政策であったり、今回の事業仕分けのような茶番劇を生んでいる。しかも、「全国民に公開している」というアリバイをつくることで、「何であの時に声を挙げなかった」という、反対者に文句を言わせないような仕掛けにもなっているから、かえって性質が悪い。
勝間和代氏が国家戦略局のヒアリングで語った表現を借りれば、増税政策も「ボーリングの一番ピン」であって、「財源がない」という手足を窮屈に縛った状態では、ますます政策が国民の生活の必要性とは全く無関係の、財政の健全化を自己目的化したものになってしまうだろう。鳩山首相の「友愛」のスローガンも、「少ない財源の中で文句も言わずみんなで我慢して頑張ろう」という、内容的には戦時中のものと質的に大して違いのないものでしかなくなるだろう。
もちろん、予算配分を見直して無駄を徹底的に洗い出すことを一度大々的にやるというのは、あってもいいとは思う。しかし、その時期が今現在ではないことは、あまりに明らかだろう。本当は今からでも遅くはないと思いたいのだが、もう手遅れなのだろうか。
ちなみに、昨日のを読み返すと年金生活者がガンであるかのような世代批判の書き方になってしまって少し反省しているのだが、趣旨はメディアや政治家が視聴率や投票率の高さを当て込んで、この層の利害関心をストレートに煽るようなものになっている傾向があって、それは少し問題ではないかということ。若年層の利害関心を煽ればいいということではなく、これからは否応なく年金生活者が世論の中心にならざるを得ないので、この層が納得するような増税政策や「成長戦略」を示していく必要があり、それは「無駄削減による財源確保」などよりは十分に現実的であると思う(というかそう思いたい)。
「無駄の削減」と年金生活者
朝日新聞社が14、15日に実施した全国世論調査(電話)によると、鳩山内閣の支持率は62%で、前回調査(10月11、12日)の65%からやや下がった。不支持率は21%(前回16%)。個別政策への評価は必ずしも高くはないものの、行政のムダを減らす取り組みを「評価する」人が7割を超えるなど、内閣の基本姿勢は高い評価を受けている。
内閣支持率は、民主支持層では9月の内閣発足直後の調査(前々回)以降、9割以上の高さを保っているが、無党派層では55%、50%、39%と下落傾向が顕著だ。
個別分野での内閣の取り組み評価では、年金・医療政策では「評価する」48%、「評価しない」28%だが、景気・雇用対策は37%対38%、外交・防衛政策は36%ずつと、いずれも意見が分かれた。
これに対し、行政のムダを減らす取り組みは「評価」76%、「評価しない」14%。政府の行政刷新会議による事業仕分けが進行中なのも影響しているようだ。官僚に頼った政治を改める取り組みも「評価」が69%で「評価しない」の18%を大きく上回る。
http://www.asahi.com/politics/update/1115/TKY200911150288.html
「無駄の削減」だけが高く支持されているという、予想はされていたが深刻な結果になっている。
繰り返すように、財源は増税と経済成長という王道で確保していくべきであって、歳出削減政策は切りやすいところが優先的に選ばれるだけで、かならずわれわれの生活に必要な分野の予算にまで及ぶことは確実である。
そもそも、無駄を減らして得をするのはいったい誰なのだろうか。以前は行政に頼らなくても生活が成り立つ富裕層と、公務員などの「既得権層」にルサンチマンをもつ低所得者層にあると漠然と考えていたが、最近はそれだけではなく、みのもんたの番組に象徴されるような、高齢の年金生活者層(数年以内にもらえるようになる人も含めて)が、どうも「無駄削減」の世論の中心にあるのではないかと考えるようになった。そもそも、「全国世論調査(電話)」というのは、どうしても家にいることが多く、一日中暇をもてあましている高齢年金生活者が中心になる。
この層にとって、日々の生活費が上がる消費税増税などは、言うまでもなく言語道断である。最近「インフレターゲット」政策の議論が盛んであり、個人的にはなかなか説得力があると思うが、しかしこれがメディア上でも話題になれば、年金生活者層はどのような反応をするだろうか。おそらく物価が上がるだけではなく、貯蓄の実質的価値が下がることを理解して、全面的に反対に回るのではないだろうか。再び労働者になることのない年金生活者にとっては、デフレが続いて物価が安くなったほうが明らかに生活が楽になるのであり、結果的に「デフレを解決するよりも無駄の削減によって生産効率性を上げること」という主張に、相対的に共鳴してしまうことになる。
結局のところ、この層が「無駄の削減」に賛成するのは、増税や成長戦略から受ける利得はさほどなく、もっぱら削減分を高齢者向けの社会保障の財源を充実させればよいと考えるためで、それはこの世代が抱える利害関心を考えれば至極当然の態度であると言える。だから、問題はこの相対的に限られた利害関心に基づく世論が、マスメディアや政治において比較的強く反映され過ぎていいて、とくに経済や財政にとって明らかにマイナスの世論を形成しているように思われることである。
日本における年金生活者層の世論の強さというのは、年金問題がこの5年ほどの間に日本社会のガンであるかのような位置づけなってしまったことからもよくわかる。年金問題に関する専門家の書いた文章を読むと、メディアで言われているほど深刻な問題を抱えている訳では決してないようで、問題にしている専門家の焦点も「世代間格差」が中心であって(個人的にそれは「問題」にすべきではないと考えるが)、年金生活者が心配しているような年金財政の破綻ではない。しかし、こうした意見はメディア上ではほとんど流れていないし、民主党政権も相変わらず「破綻の危機」を言い続けている。
ますます年金生活者層が世論の中心になっていくなかで、どのように増税と経済成長による王道で財源確保していく道を説得していくのか、考えれば考えるほど難しいという感を強くする。
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ちなみに、「事業仕分け」についていろいろ批判も当事者を含めて出ているようだけど、要するに税金を上げればすんでいた話なんだと思う。
税金を上げればすむ話なのに、いやそんなことみんなわかっているよ、でもそんな単純な問題じゃないんだよ、みたいに言う人がやたらに多いのだけど、やっぱり税金を上げれば済んでいたという、これ以上説明する必要のない単純な話でしかないのだと思う。
誤解を恐れずに言えば、今の日本にある大部分の問題は、消費税を15%以上にしていれば解消できた類のものだと思う。この単純な話を避けて、「利権の構造」をネチネチとほじくるような話は、一見真摯そうに見えるとしても、どこまで行っても芸能ネタの域を出るものではない。
別に民主党は科学技術を敵視しているわけではなく、「世界のトップになることをあきらめた」わけでもなく、あるいはそういう趣旨の発言をしたとしても、全ては「財源不足の解消」のために苦し紛れに出してきた方便に過ぎない。税金を上げて財源にある程度の余裕があれば、当然無理に削減することもなかったはずである。
税金を上げないという選択をし、そういう声もまったく上げてこなかった以上、教育や科学技術のための将来のための予算を削って、目の前の高齢者の医療や年金に当てるということは、受け入れなければいけない現実だろう。本当は、今からでも遅くはない、と思いたいのだが。
「事業仕分け」について
閣僚から「仕分け」批判…防衛相や総務相、農相
11月13日13時17分配信 読売新聞政府の行政刷新会議(議長・鳩山首相)が行っている「事業仕分け」作業に対し、13日の閣議後の記者会見で閣僚から批判が相次いだ。
北沢防衛相は、在日米軍駐留経費の日本側負担(思いやり予算)の一部が仕分け対象となったことに対し、「日米間でも、もう少し透明性を高めなければいけないという議論があり、話し合いを水面下でやっている。対アメリカとの関係も考慮して、防衛省に任せて(日米間の)進展を見てからにしてもらいたい」と述べ、日米関係への影響に懸念を示した。
原口総務相も、同日の仕分け作業で地方交付税交付金が対象となることについて、「地方交付税は地方独自の財源だ。どこかで(必要性を)一方的に決めていいものではない」と反発した。赤松農相は、「(仕分けの中で)指摘する人たちが分かっていない点もある」と指摘した。
これに対し、藤井財務相は「仕分けの結果は真摯(しんし)に受け止めて予算編成に反映させる」と述べ、判定に従って歳出削減に取り組む姿勢を強調した。
現在進行中の「事業仕分け」について、意義については理解を示す人もいるが、私は全く無意味な政治イベントにしか見えない。なによりも民主党議員の官僚に対する大上段的な詰問調の物言いと、それに対する官僚の批判的な応答を全て「抵抗」と解釈して報道するメディアの姿勢には心底うんざりしている。官僚はというと、冷や汗だらだら流しながら答弁する人もいれば、少し図太い人になると、どうせ話が通じないのだからと、「それでいいんじゃないですか」と投げやりな態度の人物もいる。こういう雰囲気で決められた政策が、およそ健全なものであると言えないことは明らかだろう。
そもそも、「事業仕分け」などというのは、出発点・発想からして全面的に間違っているのである。
必要か不要かというのも、事業仕分けで逐一判断して決めるものではなくて、まずあるべき社会のグランドデザインを設定し、政治的な利害の衝突と交渉を通じて決めるもののはずだろう。ある事業の成果が乏しくてコストパフォーマンスが悪くても、社会全体にとって必要なら、むしろ事業計画を見直した上で税金をより多く投入するという方向性だって十分あるはずだが、事業仕分けではコストパフォーマンスが悪ければ一律に削減されてしまう。
亀井大臣は事業仕分けの選定人に「市場原理主義者」が入っていると批判というよりも非難を行っているが、財政問題を歳出削減で解決し、削減の基準をコストパフォーマンスで決定するという発想自体がそもそも「市場原理主義」的なのであって、それを言うなら「事業仕分け」自体に批判の目を向けるべきだろう。「事業仕分け」で「無駄の削減」をする以上は、結局はコストパフォーマンスの計算が得意な、「市場原理主義」的な人物の協力をどこかで仰がなくてはならない。
本来であれば、財源は増税と経済成長という王道で確保していく道を全力で追求すべきである。誤解を恐れずに言えば、細かい仕分けをしなければ見つけられないような「無駄」などは(金額的にも小さいだろうから)大目に見たほうがいいのである。「大きな政府」を志向している国民新党や社民党が訴えるべきは、そういう健全な方向にもっていくことであって、「事業仕分け」の決定権を少しよこせというのは、政治的には仕方がないにしても、本来ならやるべきことではない。
しかし、私がずっと理解できないでいるのは、民主党にこうした無意味な政治的イベントをさせるまでに至らせた、行政に対する根深い反感や不信感である。こんな馬鹿馬鹿しい政治イベントによって、官僚が「世論に叩かれない」ことばかりを気にするようになり、社会全体のための積極的な提案などは怖くてできなくなり、ますますやせ細った「既得権」に固執することしか考えないようになる、ということがどうしてわからないのだろうか。
官僚・公務員はサーバントであるべきか
しばしば「官僚・公務員は国民のサーバント(公僕・奉仕者)であるべき」という理解を耳にすることがある。もちろん、「civil servant」という公務員の英語表記にも厳然と残ってはいるが、だからといって「サーバントであるべき」と官僚を批判するのはどこか根本的に間違っているように思われる。
むしろ官僚・公務員は、大規模で複雑化した近代社会で必要不可欠なテクノクラート(専門技術者)か、あるいは単なる事務員でしかない、と理解すべきだと考えている。そもそも、「サーバントであるべき」という言い方の中には、「主人」や「顧客」を満足させるための「余分な仕事」への期待が暗に込められている。「官僚政治」というのは、まさにそうした「余分な仕事」への期待によって生み出されているもののはずであるが、「官僚はサーバントであるべきなのに」という理解に基づいて「官僚政治」を批判するという矛盾が、一向に後を絶たない。官僚政治を否定したいのであれば、官僚・公務員を徹底してテクノクラートや事務員として遇するべきである。
そもそも「大きな政府」で公務員の人口比率が非常に高い北欧諸国は、基本的な教育や医療のコストを心配する必要がない一方で、行政サービスそれ自体はあまり懇切丁寧ではないことがしばしば指摘されている。北欧在住の人のブログなどでは、役所や病院の使い勝手はむしろ日本のほうが優れている、という趣旨の記述を見かけることがよくある(北欧万歳の人はこれをどう考えているのだろうか?)。つまり本場の「大きな政府」というのは、行政は「余計なこと」を一切せず、良くも悪くも「お役所仕事」に徹し、国民もそれ以上のことを期待していないのである。
日本では、公務員の仕事で住民からの苦情への対応がかなりの部分を占めているが、これは公務員に単なる事務処理以上の何か、つまり「サーバント」を期待していることの証拠だろう。「脱官僚」というのは、まずこういう官僚・公務員への余計な期待をきっぱり断念することであるはずである。人員や給与水準を減らし、労働条件をきつくすることで「公僕」の精神を目覚めさるべきであるかような物言いがよくあるが、全くのナンセンスであるだけではなく、それこそが官僚政治的な思考様式に他ならないと言っておきたい。
「労組に言われたくない」という気持はわかるが
kogarasumaru 政治, 国際, 労働 ネオコーポラティズムの実践国と労働なきコーポラティズムといわれたわが国/統一されたナショナルセンターの主流派は御用労組の同盟系…今後も労働者には苦難の時代が続くか? 2009/11/08
shibusashi 労働, 国際, 企業 『労働者の解雇から再就職までのプロセスにおいて労働組合がしっかり監視し規制し再就職支援』コメ欄『全労働者に適用される整理解雇のルール』『オランダのワッセナー合意は既存労働組合が既得権を捨てることで成立 2009/11/08
itsk 海外評論家 2009/11/08
kenyu77 まともに働いたことある人だったら、大手労組と財界が結託して、中小零細や非正規から搾取している、この構図は実感として理解できるはず。日本は資本分配率高いわけじゃないしね。 2009/11/08http://b.hatena.ne.jp/entry/ameblo.jp/kokkoippan/entry-10383432185.html
元記事から読み取らなければいけないのは、フレキシキュリティは財界や政府と真正面から渡り合えるような強力な労働者代表組織の存在を前提にしているということであって、それを抜きにしたフレキシキュリティ論はおよそ能天気で非現実的なものでしかない、ということだろう。フレキシキュリティはあくまで労働組合の組織形態と、財界との力関係のなかで出来上がったものであって、「労働組合が既得権益を手放した」という美しい話ではない。端的に言えば、労働組合が利益団体としての権力が非常に強力であるからこそ、主体的に「既得権益を手放す」ことも可能になっているのである。
批判している人たちは、日本の労組が集権的な意思決定能力を持っていないのに、「既得権益を手放すべき」などと言っている点で根本的に間違っている。もちろん、「労組に言われたくないよ」という気持はわかりすぎるほどよくわかるけど(元記事の批判されるべき点はほとんどここだけで、批判している人もこれ以上の批判をしていない)、経営者に比べて圧倒的に権限がなく、世論からの支持も脆弱な労組を批判するのは、溺れかかっている犬を叩くものでしかなく(だからこそ叩かれまくっているわけだが)、まったく本末転倒というものだろう。
だから、企業別組合の伝統があり、組織力も弱くて(職場によっては許されていない)、労働者の代表組織としての正当性すら疑われている日本にどうフレキシキュリティを上手く適用できるのか、ということがこの記事を読んだ人たちが考えるべきことである。とくに労働組合の自己賛美とは感じなかったけれど、それは元記事の筆者が組合員を名乗っているからであって、そこは当然割り引いて読めばいいだけの話だろう。
そもそも、「既存労働組合が既得権を捨てる」ことを一方的に求めるのはおかしい。ヨーロッパの労組が既得権を捨てたのは、安易な解雇を許さないこと、公的な社会保障に対する企業負担の増大を認めさせ、公的なセーフティネットを分厚く構築することとセットだったからであって、「既得権を捨てる」だけだったら労組が納得するわけがない。
日本の労使関係がよくなかったのは、企業が労働者の生活保障を丸抱えし、組合も企業別に組織化されていたため、「業績がよくなったからベースアップを」か、「経営が厳しいから労働者も我慢しろ」か、いずれかしかなかったことである。そして企業外部のセーフティネットの構築に対して、マスメディアを筆頭とする世論はほとんど積極的ではなかった。それどころか、企業の業績が向上すればセーフティネットも自動的に起動するんだ、という旧来の経験を動員する形でセーフティネット構築を先送りしてきた。労組がこれに乗っかったことは間違いないが、あくまで主導してきたのは自民党と財界である。
そして、企業外部のセーフティネットの大前提となる増税政策について、世論は依然として言語道断という雰囲気である以上、将来の見通しも暗いと言わざるを得ない。年金や子ども手当てのような「目玉政策」は部分的に分配が増えることはあるだろうが、その他のほとんど話題になっていない無数のセーフティネットは、むしろ「事業仕分け」を通じて削減され、全体的にはプラスマイナスゼロといったところだろう。だとすれば、労組はますます生き残るために、「既得権」に懸命にしがみつくしかなくなることが予想されるだろうし、そうなると非正規への賃金分配を要求することは絶望的に難しくなる。もし本当に労組の既得権が問題だと思うのなら、「増税に応じるので企業外部の雇用のセーフティネットを政府の手で分厚くしてほしい」、という主張をまず先行させるべきである。相手方の有している権利を「既得権」と名指しして、まずその解体を要求するような主張に納得するような人が、財界であれ官僚であれまず存在するわけがない。
経済社会の中に労働者代表組織が必要不可欠であるとすれば、今の日本で必要とされるのは労組の力を強化して、それを非正規を含めた包括的なものへと再編していくという道を、懸命に模索していくことだけだろう。「大手労組と財界が結託して、中小零細や非正規から搾取している」などという労組批判は、全くその通りだが、正直なところもう聞き飽きたという感じでもあり、またそんな批判からは何も生まれないと思う。
規制緩和論と外国人参政権
なぜ今、参政権法案?与野党に波紋、暗躍する推進派 党議拘束外しで急進展も
2009.11.6 22:10
・・・・・・・
参政権付与をかねて求めてきた在日本大韓民国民団(民団)に属する在日韓国人は、民主党議員を先の衆院選で支援し、両者の距離は確実に縮まっている。9月11日には民団メンバーが小沢氏に直接、地方参政権付与を要請している。
一方、山岡氏の発言を「国会会期延長の大義名分づくりだ」(民主党幹部)と見る向きもある。
今月30日までの会期では、国民新党が固執する郵政株式売却凍結法案も成立が困難との見方が強い。首相官邸サイドは郵政法案の会期内成立にこだわっていないとされるが、そうなれば国民新党との衝突も予想される。これを回避したい山岡氏が、重要法案を増やすことで官邸サイドに会期延長をのませる呼び水に使った−というわけだ。
だが、民主党の慎重派議員は「冗談じゃない。少なくとも20、30人は猛烈に反対する」「左翼政党と見られるデメリットの方が大きい」など参政権付与法案にさっそく反発している。
みんなの党の渡辺喜美代表も「参政権を行使したいなら日本人になってほしい」と反対を表明。自民党の大島理森幹事長は「(国民)主権にかかわる問題だから党議拘束なしには抵抗感を持つ」と慎重な考えを示した。
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091106/stt0911062212011-n2.htm
外国人参政権の問題について、みんなの党の党首である渡辺喜美が否定的なコメントを出している。昨年の国籍法改正に際に中川秀直が改正反対の立場を表明していたのだが、理論上は開放主義的で移民受け入れにも積極的な規制緩和論者が、なぜか外国人の権利問題には消極的である傾向がある。「ご都合主義」という批判があったけれど、以下のように「ご都合主義」の内容をまとめてみた。
第一に、規制緩和論者が望んでいるのは、外国人の企業家や投資家が日本で活動してくれるようになり、税金をたくさん納めるようになって日本の国力が上昇するということであって、それ以上のものではない。規制緩和論者は、表面的には移民受け入れに積極的である一方で、現実に日本で生活している移民の問題についてはほとんど無関心であり、むしろ難民や貧困労働者が日本に来ることは経済・財政上のマイナスとして、潜在的には否定的な考え方をしている。だから、特に高額納税者でもない普通の定住外国人が参政権を獲得することに消極的であるのは、彼らにとって言わば当然の態度ということができる。
第二に、規制緩和論者は基本的に思考様式がナショナリスティックであることが多い。彼らは規制緩和を正当化する際に「国際競争力」という(経済学的にはあまり支持されていないらしい)概念を濫用するが、それは彼らが「日本人」への自己同一化とその生存・発展への関心が人一倍強いことを示している。それ自体は一概に悪いとは言えないが、彼らにとって「外国」とは第一義的に隣人でも外部者でもなく「競争相手」なので、その競争相手への権利付与に対しては自ずと消極的になるわけである。
最後に、経済規制緩和論者と道徳保守派(利益分配政治)が緩やかに共存してきたという、自民党の固有の問題を指摘することもできる。つまり、規制緩和論者はそもそも外国人の権利問題にほとんど無関心であり、この問題に強い関心を持つ道徳保守派の意見に政治的に付き合っているだけという可能性もある。いずれにせよ、現実に日本で生活している外国人の存在に、彼らが冷淡である事実に変わりはないのだが。
そこまで危機的と思い込む必要はない
結局、この二人の「大人」性と「子ども」性は、次のやりとりで明確に浮き彫りになります。
>城さんの話は「ウルトラC」があるような感じがするんですよ。ここさえやればうまくいくんだ、という。でも私はウルトラCはないと思う。いくつものステップを踏まないと、いきなり欧州型の職務給などにはならないし、横断的労働市場も形成されない。
>私はそれでもウルトラCに賭けてみたい。
世の中の仕組みをどうするかというときに、「ステップを踏むなんてもどかしい」と「ウルトラCに賭ける」のが急進派、革命派であり、「ウルトラCなんかない」から「ステップを踏んでいくしかない」と考えるのが(反動ではない正しい意味での)保守派であり、中庸派であると考えれば、ここで湯浅氏と城氏が代表しているのは、まさしくその人間性レベルにおける対立軸であると言うことができるでしょう。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-9f6e.html
私も件の記事を読んでみたのだけど、城繁幸氏に感じた違和感は「ウルトラC」というよりも、中国や韓国との生存競争が厳しいとか、財政状況が危機的であるとか、要するに「ウルトラC」の根拠として、現在が非常事態であることを強調している点にある。
だから私が一番妙だったのは、死にそうな人を相手にしているはずの湯浅氏がそこまで非常事態を強調せず、十分に食えている人たちを相手にしているはずの城氏が、「ウルトラC」でしか挽回不可能だという焦燥感に駆られている点にある。
おそらく湯浅氏は、表面上の主張よりも、現在の日本がそこまで危機的状況にはないと考えている。日本は世界第2位の経済大国であり、そこそこ余裕のある人たちが若干の分配に応じてくれれば、ある程度の問題はすぐに解決するはずだと、そう考えている。
ところが城氏は、この日本の政治・経済の構造そのものに根本的な欠陥があるので、それを根元から除去しなければ早晩には破綻してまい、そうなれば貧困者への分配だってできなくなるんだと、ひたすら危機感を煽る。
私も危機感を煽りがちなタイプだが、現実認識は明らかに湯浅氏に近い。そして、城氏はグローバルな経済競争への適応をひたすら説き、湯浅氏はそれを無条件に受け入れるべきではないと言っているが、この点でも湯浅氏のほうが正しいと考える。経済が自然現象ではなく人間が構成しているものである以上、それを人智によって適度なものに修正することが不可能だと考える必要は、どこにもないからである。そもそも城氏の言う「現実」も、どこまで根拠のあるものか怪しいものである(個人的な印象では彼はハッタリが非常に多い)。
それにしても城氏のように、世代間格差に基づくルサンチマンをフックにして何かを語るというのは既に賞味期限切れというか、さっさと賞味期限切れにしなければいけないと思う。