上にいる人の鈍感さについて

面白いエントリーが。ちょっと別の視点で。

上にいる人は、降りてこない http://d.hatena.ne.jp/yellowbell/20080716

メディアに出てくる財界人の発言を聞くと、金儲けに邁進するあくどい人間というよりは、「馬鹿」ではないかと思うほど無邪気で鈍感であることに気づかされることが多い。曰く、「仕事なんかいくらでもある」「やる気さえあればなんとでもなる」「工夫次第で残業なんか減らせる」と。もちろん、そんな現実があるわけがないことは、書店に積まれている「格差」「貧困」と名のつく本を少し手にすればわかるはずのことだが、彼らの耳にはなぜか全く入らない。もちろん耳にすることはあるはずだが、それが知識として蓄積されないように頭の構造がなってしまっているのである。

こうした無邪気さ、鈍感さは別に財界人に限ったことではなく、物を考えるのが仕事のはずの(特に左派系の)学者や評論家にもある程度同じことが言える。そういう人の本では「自明性を疑う」「発想の転換」が必要だと主張されることが多いのだが、http://d.hatena.ne.jp/qushanxin/20080116でも書いたように、しばしば「頭の切り替えでどうにかなる問題じゃない」という反感を掻き立ててしまう。配偶者が統合失調症に陥って毎日の介護に疲弊しきっている人に対して、「固定観念を捨てればいい」「所詮は他人だから思いつめる必要はない」と言うことにどれほど意味があるのか、という想像力がなかなか働かないのである。要するに「頭のいい」人たちも、平凡な人々の「つまらない悩み」に対して恐ろしいほど鈍感であるという点で、財界人と似ているところがある。

私は上層の人が下層のルサンチマンに鈍感であるのは、仕方がないというか、ある意味で当然のことだと思っている。むしろ問題なのは、今の日本社会における上層の人が、自分が権力側にいるという反省的な自覚があまりに足りないことである。世界に冠たる大企業の経営者であるはずが、「危機的状況だ」という言葉を口にしない日はなく、年収10分の1にも満たない公務員や労働組合を「競争もせず楽をしてけしからん」と非難する。さらに「東大教授」という肩書きの学者が、アカデミズムでは何の権威も持っていない保守派の評論家をバッサリ切り捨てて、いつまで経っても自分が権力に抵抗している「弱者」「庶民」の立場であるような顔をし続けている。億単位の年収を手にしながら、「われわれの庶民の生活が苦しくなっているのに官僚は・・・」などと平然と言ってしまえるテレビ司会者も同様である。だから財界や学問界の頂点に立っているにも関わらず、「当事者ではないので下層の人たちの気持ちには共感できないが、そういう人たちを生み出しているのは私たちにも一端の責任がある」という感覚を持つ前に、「努力が足りない」「発想が古い」と切り捨ててしまう。

一言で言ってしまえば、ここには日本社会特有の「平等主義」の悪い面がはっきりと出ている。平等主義は、社会全体が上昇傾向にあるときは「自分ばかり得してなんか申し訳ない」という気分を生み出すが、今のように「下降」への流れが強まっている時代には「自分がこんなに苦しいのになぜ苦労していない奴がいるのか」という気分を蔓延させる。だから「貧しい人を助けよう」という運動を呼びかけても、上から下まで「俺なんかよりもっと余裕のあるやつがいるだろう」となってしまい、相対的に少数の貧困者自身が、ややこじんまりとした運動を細々と展開するしかないという状況からなかなか抜け出せないように思われる。