これまでの日本において、「福祉国家」が存在したことはありません。「福祉国家」とは似て非なる「開発主義国家」であったわけです。「開発主義国家」であった日本では、政府の財政力、行政力は、企業、業界、各種利益団体のところに注がれます。その結果として、国民の生活がなんとか良くなる、マーケットの状態が良くなる、雇用が増える、賃金水準が上がる−−というふうにして国民の生活が、政府から社会保障として直接支援されるのではなくて、「開発主義」政策を通じて間接的に支援されるという構造を取ったのが日本の「開発主義国家」です。

 ヨーロッパ型の「福祉国家」というのは、国家行政や地方自治体が国民生活を手厚い社会保障で直接に支援します。住宅を無料で保障する。子育ての負担も個人まかせでなく行政が負担する。大学まで学費は無料にする。医療も無料にする。−−など様々な形で国家行政と自治体が国民の暮らしを直接支援するのが「福祉国家」です。

 日本におけるこの間接的支援というやり方は、結局最後は「市場収入で暮らしなさい」という話です。だから、「開発主義国家」において、ミクロには「自己責任」の社会であるということです。日本ではこうした「自己責任」の状態が何十年も続いてきたわけです。これが、いまの新自由主義改革に対して、日本の国民にほとんど抵抗力がない1つの背景になっていると思います。

(中略)

 そして、国民、労働者の側は、これまで「開発主義国家」と「企業主義統合」の中で暮らしてきましたから、国家行政と地方自治体などから生活を支えてもらっている実感がほとんどないわけです。行政サービスを受けているという実感のあまりない国民は、「開発主義国家」における官僚の腐敗などをマスメディアでみせつけられると、「官僚が日本をダメにしている」などという公務員バッシング言説にすぐだまされてしまうわけです。しかし問題の本質は、「政・官・財癒着」の社会システム、つまり、自民党政治とキャリア官僚と財界・大企業の合作政治・行政にあるわけで、その構造にメスを入れ、改革していかなければ日本社会を改善していくことはできないのです。

http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10271251595.html

この文章、まさに自分の言いたいことをもっと精緻なかたちで代弁している。以下に若干の補足。

私の理解では、「構造改革」の主導者たちも開発主義国家体制に強く寄生した存在であった。彼らは理論そのものは、企業や家族外部のセーフティネットの構築を重視するものであったことを十二分に理解していたにも関わらず、生活保護や失業給付を充実させるための施策をほとんど主張してこなかった。どうしてかと言えば、そのための政治的リスクを怖がったのである。

新自由主義体制に対応するためのセーフティネットの構築には、どうしても大増税が必要になる。しかし増税は企業と国民の激しい反発が必定で、その説得に多大な労力を要する。構造改革の主導者たちは、この増税問題の政治的リスクを引き受けることを徹底的に嫌った。そこで彼らは、開発主義国家の伝統を表面的には否定しつつ、現実には企業の業績が上昇すれば国民の福利厚生も自然と充実していくという、国民に共有されている経験に由来する「神話」を利用し、増税というリスクの高い政治問題を避けようとした。こうして、セーフティネット構築抜きの規制緩和や民営化が推し進められていくことになったのである。

だから、その矛盾が問題化するのもほとんど必然的で時間の問題であったわけである。構造改革論者は現在でも根強い支持者がいるとは言え、大多数の国民は彼らに「だまされた」(実際だましたわけだが)という感情を抱いている。しかし世論はもっと悪い方向に流れているように思われる。厳しい市場競争と経済成長路線に倦みはじめ、安定した大企業正社員層への切望が強まり、福祉の充実を強く要求していると同時に、増税は断固拒否し、公務員と国会議員の削減で財政を再建すると言うものである。これはいまの民主党の主張に代表されるが、ここにはかつての構造改革論者のような表面上の理屈の首尾一貫性すらない。