「機会の平等」は正しいか
「機会の平等」の正当性について若干の考察。いま、少なくともマスコミのレベルでは「機会の平等」を疑う言説はまったく出てこない。私も機会の平等という原理がまったくの間違いだと考えているわけではないが、その問題点があまりに語られなさ過ぎる現状は、あまりに異常で危険であると思う。
(1)目標が共有できない
今の格差問題を解決するスローガンとして、「スタートラインを同じにする」という「機会の平等」原則が常套句として語られる。しかし、「スタートラインを同じにする」という言葉が意味をもつのは、スタートラインに立つ人々に同じ「ゴール」が共有されている限りである。今の日本社会では、これは不可能である。「そんなことはない、ゴールは人それぞれ多様であってもいい」という反論もあるかもしれない。しかし、そうだとしても「同じスタートラインに立つ」という意味が、一体何なのかがわからなくなる。そもそも、いわゆる「ひきこもり」「ニート」「フリーター」など、この10年のあいだ「同じスタートラインに立ちたがらない」人々の存在が散々社会問題になってきたのに、なおこうしたスローガンを掲げるのは非現実的としか言いようがない。
(2)客観的な基準設定が不可能
何故か誰も問題にしないのだが、何が「機会の平等」と定義可能な状態なのか、実は考えれば考えるほど確定することは不可能であるという結論になる。今の日本社会に機会の平等がないのかと言えば、「頑張れば誰でも成功できる」と言い切る人もいれば、膨大なデータを参照し、親の年収や教育を受けた場所によって機会の平等が阻害されていると主張する人もいる。この限りでは、一見乱暴な前者の意見のほうが完全に正しい。なぜなら、「機会の平等」の阻害要因を徹底的に掘り下げていけば、必然的に「両親がダメな人間だったから」というDNAの問題にまで行き着いてしまう。だとすれば「機会の平等」がないことを非難するのではなく、そういう問題設定自体がもはや間違っていると考えるべきである。
(3)最終的には「結果の平等」の問題
機会の平等を実現するための具体的な施策としては、就学援助や就業援助などが行われている。身分や縁故、男女の格差を撤廃するという、旧来の文字通りの「機会の平等」政策は、今はそれほど重要性を持っていない。機会の平等のために「援助」が必要だというのであれば、結局は資源をどう平等に配分するのかという「結果の平等」の問題になる。就学援助や就業援助をなお「機会の平等」政策と呼んでしまうと、援助によってなんとか就職しても、社会の中で最も待遇の悪い職場に無理やり押し込められるというもっと根本的な問題に、政府が何も関与しない(できない)ことを正当化してしまう。「機会の平等」の前に「結果の平等」が必要であるというのは、この問題を少しでもまじめに考えている人にはごく当たり前の話で、その人に一定の資源や能力が備わっていなければ、「機会」を自由に活用していくことなどできるわけがないのである。「結果の平等」も厳密に確定することは困難だが、少なくとも「機会の平等」に比べればはるかにわかりやすい。
結局のところ、「機会の平等」というスローガンが意味をもつのは、昔ながらの身分階層や情実、男女差別が強固に根を張っている社会が存在している限りにおいてでしかない。今の日本社会では、部分的に必要なところはあるにしても、全体としては全くの有害無益である。事実、「機会の平等」というスローガンは貧困層や障害者など直接的な配分が必要な領域に対する予算を切り詰めるための、体の良い言い訳として機能してしまっていると言えるだろう。だから「機会の平等」がないことを非難する前に、憲法の保障する最低限の社会生活についての「結果の平等」が著しく阻害されていることが、「機会の平等」をも妨げていると主張したほうが現実的である。
ここで述べたことは、少しでもそれっぽい本を読んだことのある人には別に当たり前の話だとは思う。しかし、こういう当たり前の話がなぜかテレビや新聞、あるいはネット上ですらほとんど語られず、「機会の不平等」を相変わらず問題にしているという現実がある。しかし「機会の不平等」への批判は、その人たちに「機会の平等」を決してもたらさない。むしろ反動的だと言われようとも、「結果の平等」を語ることこそが今は必要である。