石原慎太郎と浅野史郎

石原慎太郎東京都知事選で大勝したが、私はその要因はあの郵政解散選挙とそんなに構造は変わっていないと思う。

例えば石原慎太郎浅野史郎のどちらかが「破壊的」な考えと行動力の持ち主か。言うまでもなく前者である。浅野が予想以上に惨敗した理由はいろいろあるだろうが、一つには真面目な優等生の振る舞いに終始してしまったことにあるように思われる。「情報公開」を浅野は得意分野として強調したが、ほとんどの有権者にとってピンとこない話題でもある。これは毎日真面目に新聞を読んで、行政の不正に対して憤り、休日は情報公開の請求活動に費やすという「市民」の存在を前提にしなければならないが、おそらく道行く人100人つかまえても、「絶対にしたい」という人は1人いればいいほうだろう。浅野が、いわゆる「市民団体」と連携したことがイメージを悪化させたことは否めない。毎日必死で働かされている人にとって、「市民団体」は「よくそんな暇があるよなあ」とむしろ反感の対象でもある。「男女共同参画」のスローガンにしても、女性のほうが拒否反応を示す割合が高いというよく指摘される現実を全く直視していない。確固とした職と地位のある人にとって「男女共同参画」は(育児休暇などで)意味があるのかもしれないが、いわゆる「家事手伝い」と呼ばれるような、働かないで専業主婦を目指す女性や、長時間低賃金の派遣労働で苦しんでいる女性にとっては、そもそも「男女共同参画」を掲げる「市民団体」が一体何を目指しているのかピンとすらこないだろう。

要するに、「安定した地位に安住し続けている人物」というイメージが、浅野のほうがずっと強かったということなのではないだろうか。有権者石原慎太郎の選挙期間中の低姿勢を評価したのでは決してなく、浅野の優等性然とした振る舞いに対する生理的ともいえる反発なのであり、そして石原がこの8年の間に展開した破壊的(実際はそれほど破壊的でもないが)な言動に好感を持っていることの現れなのである。実際、石原を支持する声でよく聞くのは「はっきりと物を言う」である。私なんかは保守論壇でよくある主張をまた鸚鵡返しに聞かされたと感じることも多いのだが、多くの人は確かにこうした主張に日常的に触れることはあまりないので、石原の強いキャラクターもあって「はっきりと」言っているように聞こえるのはよくわかる。これに比べて浅野のリベラルな主張は、既存の権威のある(つまり学校やマスコミで当たり前のように飛び交っている)言葉に寄りかかって発言しているように見えたに違いないのである。

特にこれを象徴するのが、浅野が落選すると同時にすぐさま慶応大学の教授に復帰したことである。それ自体は特に批判されるべきことではないが、もし選挙前に慶大教授復帰が規定路線であることがわかっていたら、得票数はかなり激減していたはずだ。石原の個々の政策に対する賛成は少ないのに、「浅野だけは嫌だ」とか「消去法で石原しかない」みたいなネガティブな意見ばかりが飛び交っていたのは、今回の都知事選の性格を如実に象徴している。