成長と平等

前回のエントリー読み返してみたら、色々指摘していただいている通り、論理が結構めちゃくちゃだったのでもう一回整理します。

ここで言う「成長」というのは、あくまで自民党の執行部が言っているように、企業の体力を高めることで「景気回復」による税収の増大と賃金の上昇を達成し、それによって国民全体の生活水準が向上していくことを意味している。しかし、これは与党と財界の中枢と一部の経済学者しかまともに信じていないし、少なくとも今のところそうなっていないことは誰の目にも明らかである。前にも書いたが、自民党の言う「成長」は景気の動向(特にアメリカ・中国の)に左右されやすいし、もはや上昇志向を失っている日本国民に今ままで以上に懸命に働き続けることを要求するものである。

これに対して野党は「平等な分配」をもって与党に対抗していたが、企業の体力と経済の「成長」を暗黙の前提にしている(特に増税論議を回避している)点で、方向性は支持できるにしても、与党よりも「現実性」という点で説得力を欠いているように見えるところがある。事実田原総一郎も、「税収が増えなきゃ配分もできない」と野党の議論を一刀両断に切り捨てていた。

だから、「成長」自体を否定しているわけではもちろんないが、「成長」という軸を一旦はずした上で国民の生活や社会保障制度の維持を考えていく必要がある。つまり、自民党のいわゆる規制緩和新自由主義路線を「成長」の側面から評価するのではなく、あくまで雇用と労働の形態の「構造の変化」という側面から評価するべきなのである。単純化すれば賃金の二極分化と雇用の流動化であり、これは「マクドナルド化」と言われるような世界的な趨勢であって、日本だけがここから免れることはもはやできない。

その意味で言うと、低賃金の非正規雇用の増大は今の経済制度の中では「自然」で「正常」な現象なのであるから、彼らが基本的な社会生活を営む上では正社員層と差別があってはならない。例えば、コンビニの店員であり続けることで結婚の困難や親の老後の面倒に対する不安を招いているとしたら、それは社会的な是正の対象になる。つまり社会的な問題として解決されるべきなのは、「コンビニの店員であり続ける」人たちが多いことではなく、それが「結婚や親の老後の面倒に対する困難や不安を招いている」ことなのである。

しかし、「頑張れば誰もが正社員になれる」「そのために大企業の活動を優遇しなければならない」という自民党の「再チャレンジ」「成長路線」は、あくまで前者を解決しようとしている。それは非正社員層を「異常」な存在としてとどめておくことで、彼らが社会的に「二級市民」であり続ける状態を事実上放置してしまうことになるのである。

一方で野党とくに共産党社民党も、大企業や官公庁の労働者や昔ながらの主婦層を「正常」の状態と考えて「平等な配分」を訴えているところがある。それに彼らの物言いを聞いていると、国民全員が「真面目に」「必死に」働いて「血税」を懸命に納めているかのようであるが、この点でも自民党の執行部が求める国民像と大して変わりがない。「ムダを徹底的に省く」という物言いも、まるで自民党の口真似のようである。

要するに「成長をあきらめる」というのは、従来の正社員層の水準に国民全体が「平等」に到達可能であるということを、現状においては断念する必要があるということであり、それでもなお「あきらめない」としたら、「成長して税収と賃金が増えさえすれば!」という幻想を振りまくことで、現状の問題を放置することを正当化してしまうと考える。「成長」と「平等」自体はもちろん全く否定しないが、政治家の議論を聞いていると「成長」と「平等」が矛盾なく両立していた1980年代までの楽観的なイメージが色濃く残っていて、まずはこれを切り離していくことが必要である。

なんかあまり整理にならなかった。ちゃんと勉強して考え直します。