若年弱者問題

「ひきこもり」「ニート」「フリーター」とか、若年の不安定低賃金・無業層(若年弱者)が問題になったのは、おそらく2000年ぐらいからではないかと思う。この問題に興味を持ってきた人であれば、議論がだいたい三段階くらいで進んできたことが理解できると思う。もちろんこれはマスメディア上のもので、学問的なものではない。

第一段階は、単純な否定や叱責・説教である。つまり「きちんと就職しない若者がいるなど信じられない」というものである。そこでは「就職しなくても食える時代になった」という素朴な解説が多かったように思われる。そもそも、「フリーター」が増えていること自体が、当事者を含めてたいした問題だと思われていなかった。今でも、こうした考え方をしている人は少なくないし、確かに一定の真理を含んでいるところもないではない。

第二段階は、若者の深層心理や行動パターンから説明しようとするものである。要するに、「ひきこもり青年は他者との純粋な関係を求めすぎている」とか、「フリーターになりやすい若者は『自分にやりたいこと』にこだわりすぎる」といったものである。この議論は若年弱者を内在的に理解しようという良心的な人も多く、またところどころ面白い分析もあったが、「若者はだらしがない」云々の第一段階の態度と結果的に結びついてしまった気がする。

そして今最も主流である第三段階は、社会的な政策や構造の問題として説明するものである。要するに、「フリーター」のような低賃金労働者の増大は90年代後半から「構造改革」の名の下に財界が積極的に要求してきたもので、それが終身雇用制度に守られた団塊世代が高賃金化する時期と不幸にも重なってしまうことで、安定した職につくことが難しくなる、あるいはそうした就職活動自体から遠ざかる若者が増えたというものである。

第二段階までが問題の責任・原因の所在が若者自身に向けられていたのに対して、第三段階では原因・責任が社会の側に完全に逆転している点で大きな断絶がある。玄田有史のように両方を問題にしている人も多いが、方法論的には完全に異なっている。

本当は、最初から当たり前のように第三段階で説明されるべきだったのだが、日本では遅れに遅れてしまった。もとから「階級社会」であるヨーロッパや、あるいは隣の韓国などは、ある意味日本よりもすさまじい「格差社会」なので、不安定賃金あるいは無職の若者が増えれば、それが個人の問題であるはずがないということは最初から自明である。最初の段階で「だらしがない」「心の問題」として斥けることができたのは、90年代までの日本社会がある意味で全体的に余裕のある安定した社会であった証拠でもある。韓国では大卒の半分しか「正社員」になれないのに対して、日本では一番厳しい時代においても「正社員」を得て大学を卒業する人が多数派であった。

だがその分日本のほうが、若年弱者に対して「頑張ればなんとかなったはずだ」という物言いが通りやすいところがある。また「格差の解消」を求める側にも、「頑張った者が報われる社会」という言い方をすることが多い。この言葉は良心的なものであったとしても、若年弱者の多くは相対的に「頑張っていない」と言われ、また自分でもそう思っている(また実際そういう印象を否定できない)ことが多いことをきちんと理解する必要がある。前にも書いたが、「頑張った者が報われる社会」というスローガンは、「真剣に就活もしていない奴を救う必要があるのか」という言い方を招きやすい。

だから若年弱者の問題は、「頑張ってるのに報われない」ではなく、第一に社会的な政策と構造の問題、第二に「差別」と「貧困」の問題として徹底して扱うべきだと思う。そう書いてあんまりよく分かっていないところがあるので、また考えます。