市場・セーフティネット・規制強化

国の役割に否定的だと考えられる米国でも、70%の人が貧しい人たちの面倒を見るのは国の責務だと考えている。

多くの国では、市場経済と国の両方を信頼している。つまり、市場経済によって国全体の豊かさを増し、市場競争から貧困者が生まれれば、その面倒を見るのは国の責任だという考え方だ。

しかし、日本では格差拡大への対策として、セーフティネットではなく規制強化が議論される、少し変わった国である。

http://wotan.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-d8c7.html

市場競争とセーフティネットの両輪という「常識」が日本が根付かない理由は、1990年代以降に市場競争原理が受容された日本に特有の文脈がある。

(1)散々指摘されていることだが、日本では企業組織と家族がセーフティネットの役割を果たしきて、それがかなりの程度成功してきた、少なくともそう考えられてきたこと。

(2)日本で主導権をもっていた財界とエコノミストが、日本の企業人と労働者が「日本型経営」のなかで「悪平等」のぬるま湯につかっていたことが、国際競争に乗り遅れて不況を招いている原因であると考えていたこと。企業人と労働者が「楽をしている」という前提があったから、セーフティネットの議論が盛り上がるはずもなかった。

(3)セーフティネットを張るためには「増税」がどうしても必要であるが、日本でこれをやると選挙で大惨敗がほとんど確実なほど拒否反応が強かったこと。むしろ、「市場競争で全体の底上げを図る」という論理のほうが好まれてきた(結果的に競争激化と長時間労働による心身の負担が全体的に増えてしまった)。

(4)セーフティネットを張る役割を果たす行政への不信感。とくに日本における行政不信は行政依存の裏返しのところがあり、だから「ちゃんと仕事しろ」「無駄が多すぎる」的な官僚バッシングは起きても、では健全かつ能力のある行政にするためにはどうしたらいいかという積極的な議論はほとんど起きないし、行政を補完するNPOなどに対する社会的な支持もきわめて弱い。結果的に行政の人員削減ばかりが一方的に進んでいくが、これがセーフティネット構築を阻害することはあっても、推進することがおよそ有り得ないことは言うまでもない。

メディア上で、セーフティネットの必要性を強調するエコノミストはいたが、具体的な政策には口をつぐむことが多く、結果的に「既得権者が経済を停滞させている」的な批判の百分の一も語っていなかった。現在でも「小泉改革の継続」を唱える人のほうが、雇用の問題などで失業保険や生活保護の充実を語る前に、「労基署はしっかり監督を」「違法は厳罰に」みたいな「規制強化」を主張することが多く、逆に湯浅誠氏など左派の人たちのほうが規制強化をさほど言っていないように思われるのが興味深いところである。