なぜ若者は政治運動をしなくなったか

昔ちょっと問題提起だけしてそのままになっていたのだけれど、若干だけ考えがまとまったので書いてみたい。

(1)大学生の大衆化 
 若者の政治運動は昔から、というか世界的に見ても学生が主体である。学生運動が最も盛んだったのは明らかに1960年代だが、今と明確に異なるのは、その頃の学生は明確にエリートだったことである。少なくとも、「末は博士か大臣か」という周囲の期待を背負いながら受験勉強をしてきた世代である。「俺たちが将来の日本をリードするんだ」という意識が強く、また周囲もそのように期待していた時代には、政治や社会の問題に対して敏感に反応し、かつ行動することがある意味学生の証であるようなところがあり、また学生が熱く語る怒りや理想にも有り難味が感じられたのである。
 しかし1970年代以降、大学の進学率は20パーセントを超えて大衆化し、一流大学の卒業生もほとんど平凡なサラリーマンになることが当たり前になった。学生自身も周囲も大学生がエリートであるという意識がなくなると、学生が熱く理想を語ってもそれに対する有り難味は感じられなくなった。既に1968年の全共闘運動においてさえ、もはや大人たちは「あいつらは何やってんだ?」という反応しかできなくなっていたが、1970年代以降に「遊ぶ学生」のイメージが定着すると学生の非エリート性は決定的になった。そうして次第に、学生運動を熱心にやろうとする人間は、学生がもはやエリートでもなんでもない現実を受け止めることのできてない「イタイやつ」として見られようになっていき、「まとも」で「平凡」な学生は運動を敬遠するようになっていった。

(2)消費社会化 
 渋谷が今のよう若者の消費文化の拠点となったのは1970年代だと聞いてるが、これと学生運動の低調化とも関係しているように思われる。運動に参加していたほとんどの学生は、政治に関心があったというよりも、ノリで参加していた面があったことは否定できない。そういうある種「かっこよさ」に惹かれて運動に参加していた学生は、周囲に若者向けの消費文化が成長すると、途端にそっちの方に流れていくことになった。特に1970年代には「アイドル」という名の芸能人が出現し、コンサートで熱狂して「親衛隊」などを結成する学生が多く登場した。
 知識は乏しいのだが、おそらく書物の世界が消費社会化がしたことも大きい。それまで政治や経済について語る本というのは、一流の学者や知識人が書くものと相場が決まっていて書物自体の量も限られていた。昔の学生が、ヘーゲルマルクスの本などを理解できようができまいが読んでいたのは、当時の日本の一流の学者や知識人がこうした教養を共有していたからであり、特にマルクス主義は資本主義に関する問題を解決する「最先端」で「最終的」な理論と考えられていた。ところが、「カッパブックス」などの大衆向けのビジネス本や、『諸君!』のような一般大衆向けの論壇紙が流通し、タレントや芸能人もが気軽に本を出版するようになると、ヘーゲルマルクスなどの書物の世界における比重は次第に軽くなっていった。そうなると、マルクスの革命理論は次第に学生たちに真剣に読まれなくなり、「革命」を掲げた学生運動も真面目に受け入れられなくなっていったと考えられる。

(3)大学の一体性の解体
 日本における学生運動の衰退は、それが大学ごとに組織化されていたという面が大きいように思う。現在、特に東京の有名な私立大学は、年次や学部によって校舎がほとんどバラバラなことが普通である。応援席が満杯なのが普通だったという大学野球の学生応援も、今はそんな時代が本当にあったのかが想像できないほど人が少ない。同じ大学に通っていても、具体的な接点がなければお互いの仲間意識はほとんど皆無である。このように大学の一体性が解体してしまったことは、学生運動の組織化を困難にしたはずである。これは労働組合が企業ごとに組織化されていたために、企業社会の衰退とともに労働運動自体が衰退していったことと同じ論理である。

 全共闘運動の無残な失敗・自滅と連合赤軍事件の衝撃は自明と思われるので省略したが、結局「なぜ今の若者は政治運動をしないのか」というよりも、「なぜ学生運動が衰退したのか」という話になってしまった。ただこれだけは言っておかなければならないが、若者が政治運動をしないのは政治的な問題意識が低下したからでは決してなく、政治的な問題意識を動員するための環境が存在していないことにある。あくまで私の実感だが、若者の不満や不安は一般的に言って非常に高い。政府が何を解決したのかさっぱりわからない、年金や介護、若者の雇用などなどの問題に関する報道を聞けば特にそうである。若者はよく「キレる」などといわれるが、そういう意味ではかなり「我慢強い」と言うべきだろう。どうして「キレる」ことなく粛々と世の中の推移を受け入れてるのかを、もう一回考えてみたい。