続・なぜ若者は政治運動をしなくなったか

もう一つ書き忘れていたことがあったので、追加。

(4)国家が「弱く」なった 
 前に司馬遼太郎全共闘運動の全盛時代に書いていたエッセイをたまたま読んでいたら、今は戦前に比べられば信じられないくらい国家は弱くなったが、その弱い国家に懸命に反抗している今の学生たちは、実は強い国家が欲しくてたまらないのだろうと皮肉たっぷりに書いていた。

 今は司馬遼太郎が観察した時代よりもはるかに国家は「弱く」なっている。私の記憶でも、十数年以上前の政治家は今よりずっと「偉そう」だっと思う。テレビに出演してもふんぞり返って、意味のあるのかないのかわからないことをぼそぼそと喋るだけだという政治家が多かった。こういう政治家はテレビではやり込められるが多かったが、「学者やジャーナリストに生の政治がわかるものか。地元に帰れば俺にほうが強いんだ」という、傲岸さというものがどこかに漂っていた。昔は政治家というのは、よくも悪くもそういうものだったという気がする。今で言うと、国民新党の綿貫などにこの雰囲気が残っている。
 こういう政治家は今は、というかこの十年の間に急激にマイナーになっていった。それにかわって、ほとんどサラリーマンのような風貌で、カメラを前にテキパキと饒舌に喋る政治家が増えていった。しかし彼ら議論は一見理路整然としているものの、人格の凄みというかオーラというものはほとんど感じられない。つまり、有能か無能かはともかく、昔の政治家に比べると、今の政治家はどうしても「弱く」見える。
 政治家が「弱く」なっただけではない。高度成長が一段落した1980年代以降は、国家による上からの強引な開発経済政策は次第に減少し、国家が整備する社会的なインフラもほとんど「当たり前」化すると、国家の圧力も恩恵もあまり実感できないようなものになった。

 こうして学生運動の核に存在していた「左翼」が衰退していった。というのは、「左翼」が抵抗の対象として想定する「強い」国家が、若い世代にとってほとんど実感できなくなってしまったからである。しかも、「左翼」的な言説は教育現場やジャーナリズムなどにおいては支配的になっていたために、皮肉にも「強い」国家を知らない若い世代にとっては「左翼」的な物言いこそが「権力的」で「抑圧的」であるという観念が強まっていった。「右傾化」については色々言われているが、最も重要な背景はこれだと考えている。
 その上、1990年代後半以降に保守政権であるはずの自民党政権は、「改革」や「規制緩和」を積極的に看板に掲げるようになっていった。小泉政権になると、「既得権益の打破」「民間できることは民間に」「自己責任」という、かつての「左翼」的なフレーズが乱舞した。しかも、それを主導している政治家自体は「弱く」見えるのである。先の総選挙では、自民党大勝のあおりで、素人同然の人々までもが国会議員になった。

 こうして、たとえ国家の遂行する政策が間違っているとわかっていたとしても、国家に抵抗するための手応えのようなものが消失し、「反権力」がどうしても嘘臭さく感じられてしまうのではないかと思われる。もちろんこれは若者に限った話ではないのだけれど。

 
2007 2/10

 だから問題なのは、依然として多くのマスメディアが国家を「強力な支配者」というイメージを再生産し続けていることである。客観的に観れば、国家の一般的な利害よりも地元の利益や労働組合の利益を先に考えた政治家が多かった昔の国家のほうが、実際の権力は「弱かった」とも言えるのである。それが強く見えたのは、国会議員を発言や活動が、せいぜい新聞くらいでしか触れることが出来ず、今みたいに政治家の「キャラ」をネットで茶化すようなことは考えられなかったからである。

「強力な支配者」というイメージで国家を語り続けると、小泉前首相が「民間で出来ることは民間に」と言い続けた意味が全くわからない。というより、「首相が自ら既得権を手放した、すばらしいじゃないか」などという見当違いの反応が返ってしまうのである。「民間で出来ることは民間に」の真意は、アメリカの経済政策モデルの直輸入というのが第一だが、財政圧力が膨大なものとなったことで、国家の責任によって担うべき業務を減らすことを目的としていると考えるべきなのである。

ある意味で国家の力は今までになく強力なものになっている。税制や年金制度など国家の制度を根本的に変える前に、制度の枠内で「コスト削減」に狂奔しているのが象徴的である。「年金制度を維持するためには少子化対策を」などと、悪意なく口走ってしまう政治家もいる。現行の国家の制度を維持することが、社会をよくすることと過剰に同一視されている、という以上にしばしば優先されている。その結果、議員定数や公務員の数を減らせば増税に応じてもよい、みたいな過剰に国家に従属した態度が生まれることになる。公務員が減っても生活がよくなるとは限らず(普通に考えれば逆)、増税に応じれば生活水準が必ず低下するにも関わらずである。「国家を維持するためには仕方がない」というわけである。国家は国民の生活を向上させるための手段であるはずが、国民の生活水準が下がろうとも維持すべきものという転倒した考え方が出はじめている。

しかし、「強力な支配者」というイメージで国家を語ると、こうした批判が全て脱臼されてしまう。いきおい「個人情報保護法」みたいなものばかりに、批判の矛先が向いてしまう。前に「横浜事件」の裁判が大々的に取り上げられていたが、現代人にとってはやはり昔話にしか聞こえない。むしろこうしたイメージの再生産は、「それに比べりゃ今の国家は大したことない」という誤ったイメージを振りまくことに貢献し、国家への批判的な意識を弱めてしまう危険性がある。ほとんどの人は、国政選挙や国勢調査などで国家の「権力」を実感するに過ぎないという事実をきちんと理解していない。

だから国家の理解を変えなければならない。つまり、国家を批判する拠点を「支配」「干渉」「圧力」に求めるのではなく、その制度全体がどのように社会的に機能しているか、という観点から批判が行なわれる必要がある。まだあまりうまく言えないのだけれど。