昨日の続き。

記憶する限り、1990年代末くらいまで日本の戦争責任を指弾するような特集が、報道系の番組でやたらに多かった。どう見ても弁護できないような稚拙な反日ナショナリズムの主張に対しても、「苦しい歴史の記憶を背負った彼らの声を理解すべきだ」云々と、重々しい言葉で説教する人が必ずいた。中国の学校でまじめそうな生徒に「日本の侵略」の知識をインタビューで語らせる一方で、日本では渋谷あたりで遊んでいる「何も知らない」若者をつかまえて、「中国に比べて日本の若者はだらしがない」ことを批判するという、露骨に偏った報道の仕方もよくあった。

こうしたマスメディアの報道姿勢が、中国や韓国に反感を抱くナショナリズム感情を下準備した、という側面は確かあったと考える。こうした報道が通用したのは、あくまで「侵略戦争」の記憶が濃厚であり、現実の中国や韓国が政治的にも経済的にも圧倒的に弱かった時代に限られる。90年代以降になると、若い世代にとって戦争の記憶は学校の先生やテレビのジャーナリストが難しい顔で語る「きれいごと」でしかなくなった。そして中国が高度成長を経験した2000年代以降になって、日本自身の経済的なヘゲモニー自体がかなり怪しくなると、この偽善性への反発が表面化しはじめたということなのだろうと思う。

しかし最近は、既存のメディアや教育の偽善性への反発という以上の、次の(より危険な)段階に入っているようにも感じる。それは一言で言うと、社会的なセーフティネットが先細りする時代のなかで、社会に向かって権利を声高に要求するという態度そのものへの反感である。派遣村バッシングと今回の排外主義的なデモ行動は、おそらく気分としてはどこかでつながっている。例の団体の演説をyoutubeで聞いてみたが、生活保護費とか年金や税金の話がよく出てきて、特に団体代表の運動の動機はなんでも在日が「自分で払っていない年金」を要求したことをきっかけとしているのだという。これらは、90年代の右派ナショナリズムには全くなかった論点である。

彼らの閉塞感はたぶん私たちもどこかで共有していて、単なる「排外主義」の一言で片付けるべきではないと思う。個人的には小泉政権末期の2005年ぐらいからだと思うが、「苦しい時代なんだから文句言わずみんなで黙って耐えるべきだ(=文句を言うやつはまず俺たちのように苦労しろ!)」という空気がだんだん強まっている感じがする。