「みんなの党」について

 すこし時機を逸してしまったが、「みんなの党」について。

 我々「みんなの党」は、今の「政党政治」は「ニセモノの政党政治」だと考えている。同じ政党内でありながら考え方が違い、議員同士が足を引っ張り合う中で、最後はその間隙を縫って官僚が出てきて、足して二で割る当たり障りのない、さして効果もない政策しか打ち出せない。こうした「寄り合い所帯」化した今の政党政治では、いつまでたっても、この国に「夜明け」は来ない、「官僚の世」を終わらせることはできないと考えるからだ。

 したがって、我々「みんなの党」は、政権交代後の更なるステップとして、今の政党政治を整理整頓して、政治理念や基本政策ぐらい一致させた「真っ当な政党政治」の実現、すなわち、「政界再編」を究極の目標とするものである。

 我々「みんなの党」は、このため、「脱官僚」「地域主権」という理念、政策の旗印を大きく掲げて、今後、この政界再編の荒波の中で、政党横断的に改革派を糾合する「触媒政党」の役割を果たしていけたらと思う。

 そして、真の「脱官僚政権」を樹立し、「官僚国家日本」を変える、国民の手に政治を奪還する。「増税の前にやるべきことがあるだろう」という国民の声に真摯に応え、日本の「病巣」たる官僚の天下り既得権益、政治家の利権を根こそぎにする。そうした「改革」を断行し、税金を国民の手に取り戻し、それを医療・介護、年金、子育て、雇用等の国民生活に充てていく。そうすることで、主権者である国民が主役の、「生活重視」の当たり前の政治を実現していく決意である。

http://www.your-party.jp/declaration/

 選挙はとっくに終わってしまったのだが、「政権交代」が争点になった選挙で、少数政党が軒並み大苦戦をするなか、唯一順調に得票数を伸ばしたのが「みんなの党」である。準備していた比例名簿が足りなくて、議席を一つ逃したくらいである。

 私は、結果がわかりきっている自民vs民主ではなく、むしろ共産・社民・国民新に対する「みんなの党」という少数政党の動向にひそかに関心があった。渡辺喜美は、自民党の中の「新自由主義」と「地方分配政治」という腑分けでいくと、小泉・安倍政権で主流派の新自由主義をもっとも先鋭的な部分を代表する「構造改革」の継承者であった。実際、小泉政権下の経済政策へ非常に高い支持を与えてきたエコノミストは、みんなの党の経済政策を高く評価していた。

 みんなの党の財源の捻出手段は、官僚組織の劇的な縮小と「成長戦略」であり、ほぼ小泉政権の政策と重なるものである。さすがに再分配政策も掲げてはいるが、明らかに公務員削減と成長戦略の優先度が高くなっている。結党宣言の中に、散々話題になってきた医療・社会保障や貧困の話がほとんど出てこないことが、それを象徴している。

 それに対して、共産・社民・国民新は小泉政権下の「構造改革」をほぼ全面的に否定する立場である。最近の貧困運動を積極的に支援してきたのもこれらの政党である。だから自民vs民主ではなく、みんなの党」vs「共産・社民・国民新」のほうが、私にとっては重要だった。

 私は選挙の前は、「医療崩壊」や貧困の問題による「構造改革」への逆風で、社会的弱者への分配を重視する共産・社民・国民新の支持がある程度は伸びるものと考えていた。ところが、小泉構造改革を真正面から否定する国民新党社民党は今回の選挙で勢力的にはむしろ後退してしまったし、共産党もそれほど伸びなかった。少数政党では、最も再分配に関心の薄いはずのみんなの党だけが、なぜか「政権交代」に埋没せず「一人勝ち」したのである。

 最初この理由がどうも不可解だったのだが、私は日本の世論が弱者への再分配強化に傾いていると勘違いしていた。実のところは、そうではなかったのである。つまり国民は、苦しんでいる目の前の弱者を救うべきだという素朴な訴えではなく、まず既得権に安住している人間を懲らしめるべきだという、「不幸の平等化」の声のほうを支持したのである。そもそも民主党マニフェストにしても、内容的には連立を組んでいる社民・国民新よりもみんなの党にずっと近いし、絶叫していたスローガンの大半も同じ「脱官僚」であった。

 みんなの党はまだまだ少数政党だが、戦前の無産政党のような存在感を示すことになるのかもしれないという点で、これからも注視すべき政党であると考える。もちろんイデオロギー的には全く逆だが、既得権へのルサンチマンに基づく「不幸の平等化」の世論を背景にしているという点では、若干似ているところがある。

子ども手当ての所得制限が適切でない理由

昨日の続きの話題。

所得制限導入に否定的=子ども手当で−長妻厚労相
9月24日20時47分配信 時事通信


 長妻昭厚生労働相は24日、鳩山内閣が重要政策に位置付ける子ども手当に関し、社民党党首の福島瑞穂少子化担当相や国民新党代表の亀井静香金融・郵政改革担当相が所得制限の必要性に言及したことについて、「わたしとしては所得制限がないという民主党の主張を貫く必要があると思う」との考えを示した。
 その上で、「連立政権なので十分、国民新党社民党とも話し合って着地点を見つけ、スムーズに船出ができるように持って行きたい」と述べた。厚労省内で記者団に語った。


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hol*****さん削除/違反報告私もそう思う358点私はそう思わない19点

所得制限を設けない?
だったらこれ、バラマキ以外の何ものでもないだろ
自民党定額給付金を「天下の愚策」と批判の大合唱したのはどこの党だ?
そしてマ.ス.ゴ.ミ.は何故この矛盾を追及しない?


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hir*****さん削除/違反報告私もそう思う285点私はそう思わない36点

子ども手当や高校無償化がなぜ年収1000万円以上の世帯にも必要かわからない。
低所得者に手厚く配分するのが、国の役割では。

いつから日本の政治は、お金をばら撒くのが主流になったのだろうか

そのうち、ばら撒く金額の多寡で、政権が選ばれる時代になりそうですね


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090924-00000185-jij-pol 


私は再分配政策は「必要なところ」に「無条件で」というのが原則だと考えている。所得によって格差をつけるべきなのは、あくまで税金や社会保険料の徴収の段階である。あまり争点にはならなかったが、先の総選挙で最も顕著な対立軸は、「働く意欲があって貧困な人に分配する」という自民党と、「意欲や資力に関わらず普遍的に分配する」民主党という、分配原則の違いであった。この対立軸では、基本的に民主党のほうが正しいというか筋が通っていると考える。

年収一千万以上の家庭への子ども手当てがどうして正当化されるのか。これは難しい問題だけど、私の理解では子ども手当てが家庭ではなく、あくまで「子ども個人」に支給されるものだからである。つまり所得制限をかけてしまうと、それは子どもではなく家庭に対する支給になってしまう。例えば、DVのように親と子どもを引き離したほうがいい、という場面が少なからずあるが、その際に、子ども手当ての受給単位が家庭に設定されていると、なかなか難しい問題が発生する可能性がある。所得制限をかけないというのは、心情的な抵抗感は自分の中にも若干あるが、子どもを育てる最終的な責任は家庭ではなく、社会および国家にあるという原則を下敷きにしていると理解すれば、比較的納得できるものである。

フェミニスト政党である社民党がこれにあっさり同意し、家族規範などでは伝統保守的である国民新党がなかなか同意してないのは、こういう文脈だと理解可能ではある。

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少数ながら所得制限撤廃に賛成する意見が。

一方、「税金を取って、そのお金を配るというのは気が利かない」、「お金持ちの家庭にも手当を配るのは釈然としない」というような定額給付金に対してもあったような批判の声もある。
 前者に対しては、高所得者に対しては納税の際に税額控除するような工夫があるだろうし、行政がお金を使うことによる間接的な再分配よりも「ムダ」や「利権」が少ない分いいのではないか。
 後者についても、労働のインセンティブに対する影響を考えると、所得で差を付けない方がいいように思う。たとえば、仮に子ども手当を年収400万円未満の家庭にのみ支給するとすれば、400万円台前半の年収の子どもがいる家庭では、子ども手当を計算に入れると、400万円未満に稼ぎを減らす方が得になる。これは配偶者控除において発生している問題と同様の問題だが、収入に関係なく、一定の金額を得る権利を付与することで、「より働くと、より豊かになる」というインセンティブがどの所得層に対しても働くことになる。
 所得額に対して支給額を調整するやり方を工夫すれば働くインセンティブが無くならないようにすることは可能だが、そんな面倒なことをせずとも、高所得者からはそれなりの額の税金を取ればいい。
 所得額や資産の額に対して支給額を調整するような仕組みを作ると、役人の手間が増えるし、彼らに余計な権限を与える事になりかねない。生活保護の支給に役人が難癖を付けるような仕組みは無い方が、国民と役人双方のためにいいことなのではないか。

http://blog.goo.ne.jp/yamazaki_hajime/e/83ba7c64b637af4ced5c17437ff1c20c

 所得制限撤廃に賛成する議論だが、私とは結論が若干重なるだけで、これとはまったく異なる。労働インセンティヴが働くとか、無駄な経費が削減できるとか、そういう関係のない問題をネタにして、子ども手当を正当化するべきではないと考える。あくまで、出産・育児の個人負担が過剰になり、普通の個人の人生の選択肢のなかでハードルが高くなりすぎていることを是正するための保障であって、それ以上の理屈を持ち出すべきではない。子ども手当てが結果として労働インセンティヴを下げるものであったとしても、それはまた別に対処すべき問題として対象化すべきであろう。上記のような話は、財政の収支だけで頭を一杯にしている現場の官僚が考えるべき話であって、在野の評論家がするような話ではないと思う。官僚を厳しく批判している人に限って、社会問題のアプローチの仕方がきわめて官僚的だというのは、最近よく感じるところである。

不幸の平等化

民主党の目玉政策のひとつである児童手当ての世論をネット上で見てみたら、相変わらずというより、想像以上にひどい。

2009年9月22日 16時11分qyh*****さん削除/違反報告私もそう思う4,288点私はそう思わない155点生活保護母子加算子供手当
これがどれだけの額になると思ってるんですか。
働く気が無くなります。

働いたら負けの国にしないでください。
2009年9月22日 16時15分qyh*****さん削除/違反報告私もそう思う3,481点私はそう思わない27点
働いても働いても貧乏という人にこそ、
税金は使われるべきであり、
仕事したくないから生活保護という人を、
増やしてはいけません。

2009年9月22日 16時14分goo*****さん削除/違反報告私もそう思う2,338点私はそう思わない138点
マイナスになる家庭もある中ごり押しで進めようとする政策
まずは 見直しが先決じゃないの??
助かる家庭もあれば損をする家庭もあるどんな政策だよ!!
ダムもそうだし高速もそう 業者の意見など何も取り入れないで
なにが国民目線の政治だ笑わせるな

http://headlines.yahoo.co.jp/cm/main?d=20090922-00000064-jij-pol&s=points&o=desc

私は制度の細かい仕組みには無知だけど、家族に関する社会保障が先進国の中でありえない位低い、というのはネットで検索すれば瞬時に出てくるデータであり、育児や教育への公的支出の規模と少子化とが相関していることも、誰もが否定できないほど明々白々である。

「働いても働いても貧乏という人にこそ、税金は使われるべき」というのは、そもそも理念として完全に間違っている。再分配政策は、苦労している人を助ける、という慈善事業のようなものではない。しかし、これは再分配ということの意義がわかっているとかいないとかという以前の問題で、とにかく「自分が好きで子どもをつくった」どこかの誰かが、「こんなに苦労している」自分よりも「優遇」されるということ自体が許せないという感情なのである。

小泉政権の後半からそうだが、日本の世論が、みんなして被害者意識をぶつけ合って、足の引っ張り合いばかりをするようなものになっている。そして、横の人が不幸であればあるほど安心するような、そして不幸であるほど社会的に承認されるような、そんな社会になっている。

この問題についての色々な書き込みを読むと、不妊治療で悩んでいる人もいるとか、結婚もできない低所得者がいるとか、もっと不幸な人を持ち出してくるかと思えば、生活保護を不正受給している(きわめてレアな)ケースなどを挙げてきたりして、とにかく思いつく限りの屁理屈で再分配政策を一生懸命拒絶しようとする。これらはもはや議論の名に値するものではなく、単なる被害者意識に基づくルサンチマンに過ぎない。

ここから見るに、民主党が政権を獲ったといっても、自己責任原則から再分配政策への転換が評価されたわけではないことは明らかだろう。「一度変えてみるか」という以上のものは何もなく、「自民党をぶち壊す」と絶叫した小泉政権への人気と内実は何も変わらない。それに世論を観察していると、むしろ政治家や財界の人以上に自己責任主義が強いことがわかる。暴君の臣民は暴君よりさらに強暴だとはよく言ったものだが、大阪の橋下府知事のような、小泉政権劣化コピーとしか言いようのない「極小政府」路線の人物が、相も変わらず熱狂的な支持を得ているのも納得である。

今の日本の世論は「不幸の平等化」としかいいようのないものになっている。企業の劣悪な労働環境は批判されるようになってはいるが、その数倍規模の「それくらい社会人なんだから我慢すべきだ」という声が根強くある。そして職場では、三人集まれば人の悪口ばかりであり、みんなが後ろ指をさされないようにビクビクしているような有様である。こういう社会の風潮が、「既得権益の解体」とか「無駄の削減」といった、「不幸の平等化」を求めているだけの無内容のスローガンを政治の場面で跋扈させている。

こうした現実の中では、経済学者がいかに「経済成長」の必要性を訴え、福祉国家論者が「連帯」の重要性を訴えても、ほとんど嘘くさいものしか感じられない。なんか昭和10年代に社会の雰囲気が似ている、と言ったら言いすぎだろうか。

昨日の続き

海外勢が「亀井発言」嫌気、閣内の影響力は限定的の見方も 


 欧州系証券のシニアストラテジストは、郵政民営化の巻き戻しについて海外からみれば「3公社5現業」という非効率な運営がイメージされるので政権にはネガティブなイメージを与えると指摘する。その上で鳩山政権が「人為的に誤った政策運営をするとの懸念を持たれる恐れがある」との見方を示す。
 同時に「亀井氏の大臣就任は小泉純一郎元首相への恨みを抱いてきた亀井氏へのはなむけの人事だ」と指摘する。というのは「今や大政党となった民主党主体の政権内で、議席過半数に届かない参院での国会対策としての連携であって、来年の参院選民主党過半数を獲得すれば、亀井氏は自然と不要になる」と説明する。
 先のシニアストラテジストは、衆院民主党が結成した会派は311議席なのに対し、国民新党は3議席に過ぎず「最終的にバランスのとれた政策が期待できる」とし、亀井氏の影響力は限定的との見方を示す。
 ただ、金融担当相は、メガバンクをはじめ国内で営業する銀行、証券を監督する巨大な権限を持つ。亀井担当相の発言で早くも大揺れの金融界は、強い風圧にさらされることになった。



mar*****さん
私もそう思う10,812点私はそう思わない605点

あー。。

せっかく景気が底をうってきたのに、この金融素人じいさんのせいで、また不況に逆戻りかー。。

民主党も抜群の閣僚人事だな。



2009年9月17日 20時6分kaz*****さん
私もそう思う9,504点私はそう思わない477点

海外では、日本国民はなんでこんなXX大臣を選んだのかって話題沸騰中です。
そうだよねぇ。。。ほんとにそうだよね。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090917-00000557-reu-bus_all

亀井氏の政策の是非を判断する能力も知識もないんだけど、何でこうも「経済通」ぶって批判できる人が多いのかがよくわからない。「海外では・・」って物言いも、エコノミストは大好きだけど、なんでこんなに外国人の投資家の目ばかり過剰に気にするんだろうか。

亀井氏は要するに「今にも倒れそうな人はゴチャゴチャいわないで助けるべきだ」と言っているだけで、それに対して「経済を知らない馬鹿」という批判はないだろう。経済的にはどうか知らないが、社会的・倫理的には全面的に亀井氏のほうが正しい。

繰り返すけど、バリバリの経済の専門家が主導する経済政策が社会的には不適切で、そのことが経済の本体そのものを傷つけてしまうなことはあり得るし、非専門家による経済政策が社会的には適切で、そのことが経済成長を後押しすることは充分にあり得る。亀井氏の政策を専門家ぶって云々する前に、まずこの基本のところに立ち返るべきである。

ただ、経済の専門家が鼻から馬鹿にしている人が経済政策を主導するのは、さすがにまずい。専門家が言うことを聞かなければ、政策が前に進まない。大臣職よりもご意見番のような地位を与えたほうがよかったように思う。

それにしても、日本の世論は経済主義的な構造改革にウンザリしたと思ったら、今度の大臣は経済音痴で恥ずかしいと批判したり、いったい世の中をどうしたいのかさっぱりよくわからない。

亀井氏の人事について

改革姿勢の後退と受け止められ、日本株売りにつながる


ただ、金融担当も含むキーポストだけに、景気や日本経済の行方に関心の強いマーケット関係者から戸惑いの声が上がっているようだ。


ロイター通信の2009年9月15日付記事によると、ある国内証券ディーラーからは、「郵政改革は日本の構造改革の象徴であったため、後戻りするような政策になれば、海外勢からは改革姿勢の後退と受け止められ、日本株売りにつながりかねない」との指摘が出ているという。


国際金融アナリストの枝川二郎さんは、警察官僚出身の亀井静香代表に、キーポストを任せることに疑問を呈する。


「亀井さんは、経済をあまり理解していない人ですね。素人には、その動きは難しくて、なかなか分からないのですよ」

ある金融機関の役員からは、15日夕、「亀井さんでは、まったく困る」とのメールが来た。亀井代表がこの日の会見で、中小企業に対して3年ほど借金の元本返済を猶予するモラトリアムを導入するとしたが、この役員は、「すぐに中小企業に金を貸せと言い出すのでしょう。本当にそういうことが日本経済のためになるのか判断しているのでしょうか」と嘆いていた。


枝川さんは、「まったく同感です」としたうえで、こう話す。


「(現金融担当相の)与謝野馨さんは、経済に理解があり、少なくとも愚かなことはやっていません。亀井さんが、郵政に対する理念を通そうと、目先の政治的なことばかり追い求めていると、世界の笑い者になるかもしれませんよ。民営化しない選択肢もありえますが、全体として経済をどう動かしていいか理解していない人がやると、本当に日本売りになるでしょうね」


http://www.j-cast.com/2009/09/15049678.html

 別に今回の人事に賛成なわけでは必ずしもないが、これらの「経済通」の論評は完全に間違っている。

 今度の総選挙の一つの論点は、この10年来の市場主義的な「構造改革」を批判的に総括する、というものであったはずである。社会全体の構造を無視して財界と財界に近いエコノミストだけで独断的に経済政策を遂行すること、そのことが数字上の経済的なパフォーマンスを若干上向きにすることがあっても、社会全体に深刻なゆがみをもたらすこと、この「経済学偏重主義」への反省が福田政権以降の自民党の流れであり、今回の総選挙の結果だったはずだ。亀井氏の人事も、こうした流れのなかでは自然なものであるとは言える。この経緯について、ここで無責任に語っている人たちは何の反省もないのだろうか? 
 亀井氏が適任かどうかはともかく、必ずしも経済通ではない人が経済政策を担当することは決して悪いことではない。法務大臣が法学者や弁護士出身者である必要が必ずしもないのと全く同じである。別に当たり前のことで、法律や経済が他の分野に波及する影響力を勘案できなければならない以上、あまりに専門家すぎる人はかえって不適格であり、それでは官僚と何も変わらない。あの竹中平蔵にしたって、私に言わせれば、あれこそ官僚主義的な人間像の極致であろう。「これが経済というものです」という、膨大な専門知識を背景にした紋切りで政治家を思考停止させるのは、まさに官僚の常套手段である(違ったのは「鈍感力」の桁外れの強さ)。

 この文章で明らかなのは、亀井氏とエコノミストとでは見ている社会が180度違うことである。亀井氏が郵便局を必要としている地方の社会的弱者について語るのに対して、エコノミストは「日本売り」という国際金融市場のことばかりを心配している。亀井氏にとってビジネスの世界で日本が笑いものになろうと別に大したことではないだろうし、エコノミストは地域の郵便局のことなど頭の片隅にすら入っていないに違いない。経済がわかっているかどうかという問題では全くなくて、どっちの世界を向いているのか、そしてどっちの世界を見たほうがわれわれの社会にとって幸福な結果をもたらすのか、そういう問題でしかない。 

増税を語る

増税策を批判するときの常套句が、「税金の無駄遣いを根絶しなければ・・・」 というものである。一見正論にも聞こえるが、私言わせればとんでもない話である。

 いま医療・社会保障の問題を起こっていることは、単純に財源問題である。そして財源が足りないのは、税収が少ない、税金が安いからである(参考http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5105.html)。90年代以降、「国際競争力」の名の下に法人税の減税と所得税累進率の緩和などを行ってきたのに、消費税などの他の税金をさほど上げずに済ませてしまったために、財源が不足している。この小学生でもわかる問題が根本的な話であって、それ以外の「税金の無駄遣い」などの話は全くの枝葉である。増税政策を批判している人は、一見難しく考えているようにも見えるが、要するに枝葉の話だけしかしていない。

 「無駄遣いの削減」はもちろんやらなければならないが、無駄遣いは国家という大きな組織を経営していれば必ず発生するものであり、その削減は現在だけではなく10年後あるいは100年後も課題であり続ける。だから、そんな理屈で増税を拒否し続ければ、永久に財源問題は解決しないことになってしまう。もう忘れているのかもしれないが、つい最近まで医療費も無駄が多いと批判されていたのであるが、「医療崩壊」の報道とともにすっかり聞かれなくなってしまった。要するに、「無駄遣いを根絶せよ」という声も、今の病院の勤務医がそうなっているように、無駄の有無とは無関係に、公務員が悲鳴をあげて苦しむ姿が見られるようになれば途端になくなってしまい、ついこの間まで公務員をボロクソに叩いていたことなどすっかり忘れてしまうのだろうと思う。

 医療・社会保障の問題で、一見みんな真剣に困っているかのような顔をしているが、本当はさほど困っていないに違いない。本当に困窮しているのなら、屁理屈をこね回して増税政策を批判している暇などない全くないはずだからである。増税なしでも生活がそれなりに成り立っているという実感があるので、増税の必要性をあまり感じないのだろうと思う。しかし、その結果のしわ寄せは障害者自立支援施設など、公的な財政支援なしには一日でも生活が成り立たない最底辺の社会的弱者に向けられることになる。

 国民の反発を覚悟で増税を語る、ごく一部の(財界関係者以外の)良識派にも言いたいのは、いかにも重苦しい顔で「増税しなければ財源が・・・」みたいな話をするのではなく、まず必要な分野に対する分配の道筋を示した上で、増税によって個人レベルでの負担感・不安感が低下することを強調すること。「苦しいから税負担を」という理屈だと、「こっちだって苦しいのに」という、無意味なルサンチマンのぶつかり合いになることは避けられない。増税が国民の生活を楽にするということを、真正面から訴えたほうがよい。

「行政の無駄」にはうんざり

 明日総選挙だが、毎日のように「行政の無駄の削減」を聞かされる。本当にうんざりである。逆に増税に言及する政党や候補者は自民党の一部の、しかも小さな声でしか出ていない。

 国民は税金とくに消費税を上げると生活が苦しくなると思っている。それは端的に誤解であり、そのような誤解があること自体は仕方のないことである。そうした誤解に対して、国民全体の負担を減らすために消費税をあげるのであって、増税はイコール負担増では決してないと、そう粘り強く説得するのが政治家の仕事であるはずだろう。

 消費税増税に理解を示す人は一定数確実にいるわけで、その理解を広げていくことは、どうしようもなく難しいことではない。国際比較で見れば日本の税負担は明らかに低いこと、高税率の国でも生活水準は豊かで経済成長と矛盾しないこと、いくらでも簡単に説得できる材料はある。実際、消費税の意義そのものを理解していないのは、共産党社民党ぐらいである。

 にも関わらず、政治家はそれを全くやっていない。説得のための労力を惜しんでいるだけではなく、「どうせ説得したってわかるわけない」とはなから諦めている。要するに今の政治家は、怠惰であるだけではなく国民を完全に馬鹿扱いしているのである。政治家としての責務を完全に放棄していると言うべきである。

 では財源はどうするのかと問われた時に持ち出すのが、「行政の無駄」という何の根拠もない「神話」である。私は何度聞いても、何が「無駄」なのかさっぱりわからない。それくらいの無駄は大目に見ろよ、という言いがかりに近いものばかりである。「天下り」についても、それをなくしたところで雀の涙ほどの財源しか確保できない、という常識的なことが全く語られない。

 私のような社会的な地位も収入も高いとは言えない人間にとって、公務員が大幅に減らされ、いざとなったときに行政に頼れなくなってしまうことが、正直とてつもなく不安である。わたしより弱い立場にいる人間はなおさらのはずだろう。公的な機関と人員がどんどん削られることに、いったい他の人は不安じゃないのだろうか。それが不思議で仕方がない。