保守問答

保守問答

この中島岳志という人の言っていることは、内容そのものはいちいち全く同意見なのだが、どうもいま一つひっかかるところがある。小林よしのりが『パール判事』という中島の本をめぐって激しい批判を展開しているそうだが、確かに本の内容の不備があったにせよ、なぜ小林がそこまで怒るのかあまりよく理解できなかった。しかし、『パール判事』とこの本をざっと読んでなんとなくわかるようになってきた。

中島は「本当の保守」を繰り返し強調しているが、小林が言うように別に「保守」が何であるのかなどどうでもでいいことだし、また間違いだと言うつもりもないのだが、やはりどうしても違和感が残ってしまう。「保守」と言う割に、そこで言っていることが余りに大人しすぎるのだ。そもそも近代社会では、「保守」と言われることは(とりわけ知識人業界では!)光栄なことでは決してない。それはもともと、「世の中は進んでいるのに実態のない古臭いものにしがみついている」という、揶揄・嘲笑を込めた表現である。そうした称号を敢えて引き受けるのは、かなりのへそ曲がりであり、よほどの偏屈者でなければならない。実際、福田も西部もそういう、ある意味で「みんなが正しいと思っていることに敢えて反抗したがる」という、天邪鬼的な子供っぽさを持ち続けた人である。

私自身は「保守」を自称できるほど骨があるわけでは正直ないが、「保守」と言われてきた人に少なからず敬意を払ってきたのは、まさに世間の非難や嘲笑を敢えて引き受け、「全体の空気」とでも言うべきものに孤独に抵抗しようとしたところにある。西部邁は、討論番組に出て「保守的」な発言するたびに、他の「良識的」な政治家や学者たちの一斉に反発を受け、彼もそれに真っ赤になって反論したものである。西部の議論に全て賛同していたというわけではないが、こうした周囲の反発を一身に引き受けようとする反骨的なところは、まさに「保守」を名乗るだけのことはあると思う。

ところが中島岳志はどうかと言うと、こうした反骨的なところをあまり感じないのである。つまり既存の政治家、学者、マスコミ、教育界などが激怒したり困惑したりするようなことを、彼は決して言わないし、言いそうな雰囲気もまったく持っていない。という以上に、「保守は熱狂を排する」云々の物言いに表れるように、そうした「世間」に歓迎されるような、妙に穏健な発言がやたらに多いような気がする。『パール判事』の評価については門外漢で何とも言えないけれども、「いかにも日本のアカデミズム界隈の価値観に受けそうな解釈」であるという違和感が強く残った。彼の批判する「大東亜戦争肯定論」的な主張と言うのは、戦争の歴史やネット上を含む論壇に無関心の大多数の人にとっては耳にする機会すらないものであり、特にテレビのコメンテーターや大学の研究者が公言しようものなら、その社会的地位を失う(少なくとも低下させる)ことは確実である。そういう「少数の極論」を過大に評価して批判することは、どこまで言っても「世間一般に迎合」した、その全体性による圧力以外の何者でもない。おそらく小林が激怒しているのも、中島にこういう「世間一般への迎合」という雰囲気を感じたからにほかならい。

しかし「保守」を名乗るからには、福田や西部がそうであったように、もっと「世間一般」に嫌われてほしいものだと思う。それができない人間が「保守」を名乗るのは、別にどうでもいいといえばそうだけれど、やはり正直なところ違和感がある。