核武装論―議論はなくてもいい

核武装論が一段落したが、気になったのは「議論はあってもいいではないか」という意見がかなりあったことである。ネットで上多かったのは予想通りだが、新聞やテレビなどでも少なくなかったのは正直なところ驚きだった。

おそらく、大半の人は「核武装はするべきではない」と考えているし、言いだしっぺの中川政調会長や麻生外務大臣なども「非核三原則は堅持する」ということを明言している。しかし結論が出ているなら、どうして議論をする必要があるのだろうか・・・・?断っておくが「議論はあってもいい」のは当たり前である。テレビの討論番組で核武装論に言及する人はいくらでもいる。しかし、国会の貴重な時間を割いて議員同士が議論する必要があることなのかどうかは、全く別の話である。ところがこのことを理解せずに、「核武装は反対だが議論はあったほうがいい」という、自家撞着を起こしている人たちが後を絶たない。そこでは、「何を主張するために核武装論を議論したいのか」がさっぱり語られないまま、「議論はあってもいい」というそれ自体議論が出来ない正論ばかりが語られるのである。核武装論は、核武装すべきか否かの単純な二者択一の問題であり、そこにグラデーションは一切ない。「すべきでない」と結論を出しておいて「議論はあってもいい」というのは、どこまでも理解不能である。

私が懸念するのは、このような「議論はあってもいい」というそれ自体は誰もが批判できない理屈によって、「議論すること自体がとんでもない」と拒絶反応を起こして核武装に反対する人たちに対する反発が強まってしまい、結果として核武装論に対する支持が広がる可能性である。核武装論の「議論があってもいい」ということは、「核武装は場合によって必要だ」ということを前提にし、その必要であることの根拠を万言を尽くして説明して納得を得るというプロセスを経るべきである。しかし、「議論はあってもいい」というそれ自体批判的に議論できない正論ばかりが語られ、「議論はよくない」という反核論者の物言いの抑圧性に対する反発が強まってしまうという悪循環が生まれているような気がする。私は核武装論(外交的なカードを含めて)には全面的に反対だが、「核武装すべきだ」と明確に述べる人よりも、「反対だが議論はあってもよい」という態度をとる人のほうがよっぽどタチが悪いと感じている。どこを論点にして議論しあったらよいのかさっぱりわからない上に、結論が同じであるはずの反核論者のほうに「議論はあってもいいだろう」と批判の矛先を向けるという、支離滅裂な態度をとっているからである。核武装論議が議論の抑圧性をめぐるルサンチマンのはけ口に堕し、それが核武装肯定論を強めているとしたら問題である。少なくとも、現在そうした雰囲気があることは否定できない。

核武装は必要ない」と思っているのに「議論はあってもいい」と思っている人にあえて言うが、「議論はあってもいい」というのであれば「議論はなくてもいい」のである。馬鹿の一つ覚えみたいに「議論はあってもいい」という理屈を受け容れてしまうことで、結果として核武装論の勢力を強めている危険性に自覚的なければならない。

12/13 追加

小林よしのりが『SAPIO』に、おそらくこれ以上ない最も単純明快な核武装論を展開していた。はっきり語ってくれたせいで、核武装論に対する違和感のありかが何となくわかってきた。どうも核武装論に傾く連中は、国際政治が練達の外交猛者たちが冷徹な計算に基づく戦略を繰り出すゲームとして描き、これによって核武装を正当化しているところがある。核武装による駆け引きと緊張関係によってバランスをとることができる国際政治が可能であると無邪気なまでに信じている。しかし私は、こうした国際政治観自体がいまひとつピンとこないのである。周知のように、一次大戦も二次大戦も引くに引けずにズルズルと戦争が長引いてしまったのであって、「戦略的な外交」などはあくまで部分的にしか機能していなかった。上述の国際政治観にピンとくる人が多いとしたら、断言するが、それは「日本はなめられている」という被害者意識を強く抱えているために、「敵」を過剰に「外交猛者」に描いてしまっているだけである。

このような、(間違った)国際政治観が広く抱かれたままで議論に突入すれば、間違いなく核武装論が勝つだろう。核武装論が正しいからではなく、「冷徹な計算に基づく外交戦略」の存在を信じている人たちにとっては、核武装論が最も理解可能な解決方法だからである。核武装論は「核武装すれば金正日はびびってくれるだろう」という想定の下で成り立っている。これが本当であれば、核武装論にも一理あるかもしれない。しかし、専門家でさえ金正日が何を考えているのか断言できていない状態で、「核武装すれば金正日はびびる」と考えることはできない。私が核武装論を容認する人に反発するのは感情論だからではない。小林も喝破しているように、非核論者のほうがずっと感情的である。私が核武装論者が嫌なのは、その逆で妙に戦略家気取りだからなのである。「国際政治の現実」を、戦国時代の小説のような図式でまとめるので、どうしても「本当にわかってんのかお前?」と突っ込みたくなるのである。

しかし、この生意気な小学生が語るような戦略家気取りの語り口が、「現実的」であると受け止められている節がある。今の被害者意識に凝り固まった雰囲気で大々的に核武装論議が行われれば、世論が核武装容認に傾くのはわかりきっていることである。「非核論を議論で論理的に説得する」という人たちも、言っていることは一々正しいのだが、私から見れば議論の力を信じすぎている。議論がいかに無力であるかは、去年の郵政解散選挙の顛末でも明らかである。私が核武装の議論はなくてもいい、とあえて主張するのはこのためである。むしろ、国際政治に対する見方そのものを変化させてやる必要がある。

ある意味では、小林は「国のために死ぬ」という倫理的な構えがはっきりとあるから、そうした態度そのものは心情的に支持してもよいと思う。しかし、小林は核武装論が徐々に受容されつつあるのを「それ見ろポチ保守ども!」と狂喜する前に、上述のような背景をもっと知る必要があるだろう。しかしネットで核武装論を語るほとんどの連中は、小林の説く「愛国心」などどこか鬱陶しいと思っているに違いない。本当に核武装論が盛り上がったときに、小林は「わしの考えていたことはこんなことじゃない」と気付くことになるだろう。