三つの格差社会
格差社会には三つのタイプがある。かなり単純化しているので、あくまで「図式」として読んでもらいたい。
(1)ヨーロッパ型
格差社会というよりは「階級社会」である。高学歴高収入というポジションを享受するのは、一部の選ばれたエリートとあらかじめ決まっている。こうした階層化は10代後半までにすでに決定され、大学進学率もあまり高くない。その一方で、低収入低学歴の人々は、それほど一生懸命働くわけでもない。つまり社会的な地位も収入も高いが、仕事がハードで担う社会的責任も高い少数のエリート国民と、あまり地位も収入も高くないが忙しく働いわけでもない多数の一般国民に二分される。失業率は高い一方で「就業」のモチベーションも低く、失業自体は深刻な社会問題ではない。階層が世代間で継承される率も比較的高く、経済競争はエリートの「上層」が担うべきものと考えられていて、一般国民の上昇志向はあまり高くない。
(2)アメリカ型
国民全員が「機会の平等」の下に、個人の責任と実力において経済競争に参加することが建前になっている。激しい経済格差は生じるものの、「平等で公平な個人の競争」という建前が社会的に承認されているので、それ自体は大きな社会問題にならない。「上層」は極めて高い社会的な尊敬を受けることができる一方で、寄付やボランティアなど無償の社会的な貢献を行うべきだという圧力も強い。「上層」も「下層」も上昇志向が強く、プロスポーツなど「下層」が「上層」へと移動可能なことを演出する仕組みが発達している。失業率は高くないが、「下層」になるほど職場環境は劣悪である。
(3)中国型
国民全体の上昇志向はきわめて強く、経済格差の存在についても極めて否定的で社会問題化しやすい。格差が受け入れられているのは、あくまで絶えざる経済成長によって「誰もが将来は豊かになる」という「神話」を維持しているからである。膨大な農村からの出稼ぎ労働者は、低賃金で劣悪な環境で働いているが、それでも大都市の高層ビルの建設現場などで働くことで、農村にいたときよりは「豊かになっていると」実感することが可能になっている。もっともこうした古典的な格差の一方で、平等志向の故に階層に関わりなく学歴志向が極めて高く、急激な高等教育の進学率の上昇で高学歴者の失業問題が起こっているという、先進国的な格差の問題が生じはじめている。
まとめると、ヨーロッパ型は格差を維持するかわりに「下層」に余裕を与える、アメリカ型は「個人の平等な競争」によって格差の再生産を正当化する、中国型は格差を平等への「過渡期」と位置づけている、などなどによって「格差社会」に対応していると言うことができるだろう。ヨーロッパ型とアメリカ型は対称的なようでいて、共通した条件を持っている。それは移民である。ヨーロッパの労働者に余裕のあるのは、余裕のない低賃金労働を移民が担っているからであり、アメリカが競争社会を演出できるのは初期条件が貧困である移民を恒常的に受け入れているからである。中国で欧米の移民に当たるのは、いうまでもなく無尽蔵の農村からの出稼ぎ労働者である。
日本で上の三つのいかなる道をとるにしても決定的な壁にぶち当たるのは、この「低賃金かつ劣悪な環境で働く膨大な労働者」(長いのでここでは「下層労働者」と呼ぶ)が存在しないことである。欧米の移民や中国の出稼ぎ労働者に当たるこの下層労働者が、日本では「派遣」や「フリーター」と呼ばれていることはしばしば指摘されている。しかし欧米や中国の下層労働者との決定的な違いは、(1)欧米中国では出身自体が貧困である場合が多いのに対して、日本では「豊か」だった場合も多いこと、(2)欧米中国では故郷に帰れば「富裕層」であることが多いが、日本ではそういう「富裕層」になる「故郷」はまず存在しないこと、(3)欧米中国では生活スタイル自体が「下層」であることが普通だが、日本では車、パソコン、携帯などの機器を持っている(持たざるを得ない)場合も多いことである。
今の自民党政権は「平等な競争」というアメリカ型と「過渡期」という中国型を組み合わせ、「個人の平等な競争で日本国民全体が豊かになる」という(かなり間違った)論理で「格差社会」に対応しようとしている。しかし、これは絶対にうまくいかない。移民や出稼ぎ労働者のような、分厚い下層労働者層が日本には存在しなくなったからである。だからこれからの自民党政権は、「だったら下層労働者層をつくればいい」という方向へと向かう可能性が強い。配偶者控除の撤廃や扶養控除の年齢制限などは、この文脈で理解できるような気がする。移民受け入れを増加するという方向性は何故かあまり強くないのだが、理由はよく分からない。
ちょっと自分でもまとまりが悪くなった。また考えます