愛国心について

最近教育基本法の改正問題でまた愛国心に関する議論が盛り上がっているが、二つの傾向があるように思った。

一つには、あるべき愛国心を「自然に湧き出る感情」と理解している点である。つまり、「自然な感情」なのだから教育でも教えるのは当然と言う人と、「自然な感情」は教育で教えるべきものではないと人と、立場が対立する両方が愛国心は「自然に湧き出る感情」と考えているのである。しかしナショナリズムに関する本を少しでも読んだ人には自明のことだが、愛国心は教育やマスメディアといった人為的な制度を通じてのみ形成されているという意味では「自然な」ものではない。一生山奥で生活している人に愛国心があるわけがない。我々が愛国心を「自然なもの」と考えるとしたら、教育やマスメディアを通じて「日本」や「国家」といったカテゴリーで社会や世界を観察する作法に慣れ親しんでいるという意味で「自然」なのである。「うさぎ追いしかの山」のような「自然」では決してない。愛国心自体は大事であると考える人はわりあいに多いのに、「愛すべき国をつくろう」という議論にはなぜかならないのは、それを人為的に手を加えられない「自然な感情」であるという理解が根底にあるように思う。

もう一つはそれにも関わらず、「愛すべき国」の担い手は国家の官僚や政治家と理解されていることである。「愛国心を教育する前に愛せるような国にしてほしい」などと言う人もしばしばいるが、これなどは愛国心を国家の官僚や政治家なやることを支持できるか否かという問題に矮小化している議論と言っていい。この意味で、「反権力」的な人が同時に愛国心まで否定してしまうことが多いのは、愛国というと国家体制を愛することだと早合点してしまう、かなり日本的な現象と言える。現在の愛国心の議論でも、「愛すべき国を新しくつくっていこう」という「反権力的愛国者」の存在はほとんどいないようである。「愛国者」を自任する一部の人を除くと、愛国心の語り口がどうも評論家的で妙に冷めているのである。

現在の愛国心論議では、この両方の論理がごっちゃになって、「自然に湧き出る愛情を持てる国を現在の政治家や官僚はつくってほしい」という、よく考えると矛盾した議論が展開されているような気がする。別に矛盾しているのが悪いわけではないが、愛国心として語られる内容として貧弱な感じがする。私は法律に書き込む必然性は全然ないと思うが、広い意味での「愛国心」教育は行うべきだと思う。うまく言えないのだけれど、「国を愛せよ」と教えるのではなく(それは逆効果にもなる)、我々の生きている「日本」という社会がどのような仕組みで成り立っているのか、どような歴史的な厚みの中で現在のような経済大国になったのか、その上で我々がどのような地点に生きているのかということを認識させるということなのである。もちろんそれで「国を愛する」ようになるわけでは必ずしもないが、「日本という国がどうなっても俺には関係ない」という人々を減らす可能性はあるかもしれない。