まともな生活

秋葉原連続殺傷事件に関して、派遣労働や格差社会の問題と短絡すべきではないという「正論」を時々見かける。しかし私を含めて、この事件をめぐって現代日本の問題の縮図を投影せずにはいられなかった人々を膨大に生み出した事実は、それ自体極めて重要な「事件」であると言えるだろう。

私にとってこの痛ましい事件は、下層労働者のルサンチマンの在りかがどこにあるのかを、あらためて浮き彫りにするものであった。なぜ金持ちや政治家を狙わなかったのか、という声が一部にあるがまったくの的外れである。加藤容疑者のような立場の人にとっては、財界の指導者や政治家のような人々は、決してルサンチマンの対象にはならない。それは、自分がそういうエリートの立場になることを想像もできないし、そもそも欲望すらしていないからである。ルサンチマンが富裕層や政治家に向けられるのは、あくまで「立身出世」の物語が強く生きていた高度成長の時代までである。

しかし現在は、公園で楽しそうに遊ぶ親子連れの家族やカップルの姿が、十分なルサンチマンの対象になる。なぜなら、そういう姿は「人間として普通の営み」として理解されているからであり、だからその「普通」すら獲得できていない状態にあると「もう人間として終わっている」という劣等感を溜め込んでしまう。これを単に加藤容疑者の自意識過剰として片付けるべきではない。たとえば彼が親戚の結婚式や葬式などに出席し、「まともな生活」を送っている人々に囲まれているときの、居心地の悪さを想像すれば十分である。特に彼のように親戚に高学歴者が多い家庭に生まれ、「まともな生活」の自明視が人一倍強い環境で育ったであろう人間にとってはなおさらそうである。

この5年ほど公務員へのバッシングが盛んだが、その根底にあるルサンチマンは「まともな生活が保障されている」という点に集約されている。厳しい競争原理や整理解雇は、もともと私企業の労働者に対してもごく限定的であるべきはずのものだが、公務員はそれが原則的にないというだけで非難の対象になっている。公務員をバッシングしている人が年収400万程度の正社員だとしても、加藤容疑者のルサンチマンとおそらく感情としてはどこかでつながっている。それは、平凡な人間の並の労働や努力では、もはや「まともな生活」を獲得・維持できなくなっていることへのルサンチマンである。

マスメディア上で、大企業や政権与党の経営や政策を「新自由主義」として批判する学者や評論家は多いが、それは「正社員で働いて家族を持って・・・」という旧来型の「まともな生活」を基準にして、それが国民一般に行き届いていないことを根拠に批判するという論法が依然として大部分である。しかしそうした論法は、現実に「まともな生活」を手に入れることのできない人々のルサンチマンを解消するものではないと考える。