日本型新自由主義

郵政問題について、私は詳しいことは何もわからない。かんぽの宿の問題にしても、「民営化ってそういうことじゃなかったのか?」ということでしかないし、新しい社長が批判されている理由もまったくわからない。正直なところ、週刊誌の芸能ネタの域を出ていない。今回の人事は、そもそも「天下り」「渡り」の定義の範囲外だと思うけど、そうだとしても何が悪いのか、そんなに激怒すべきことなのか、やっぱりよくわからない。実際見たわけでもないのに、どうして「陰謀」「利権」を全て見通したような態度をそんな簡単にとれるのか、これは昔からわからない。

そもそも郵政問題は、それ自体は全然たいした問題じゃないと思うし、あまり関心もないのだけれど、「日本型新自由主義」とは何だったのかを総括するという意味では重要な題材である。

90年代以降の自民党が奇妙だったのは、新自由主義型の政治家と、理念的に完全に対決する利益分配型の政治家とが、緩やかに共存してきたことである。実のところ、自民党の支持基盤で新自由主義勢力はごく一部であり(ただテレビでは目立っていた)、公共事業による分配と「日本的経営」の雇用保障に利害関心を持つ人たちが圧倒的多数だった。

新自由主義者は、「セーフティネット」の重要性についても口にしてはいたが、自民党の中でほとんど政治的なテーマとして掲げられてこなかったのは、ここに理由がある。つまり公共事業による再分配と日本的経営による「企業福祉」が、「セーフティネット」の代替物になっていたので、再分配政策を増税による公的なセーフティネットの強化ではなく、公共事業や企業の体力強化という方法を選好したわけである。

新自由主義勢力も、そもそも再分配それ自体にあまり関心がないので、こうした「旧体制」に暗黙のうちに乗っかっていた(表面上は批判していたのだが)。実際は、彼らは「旧体制」の日本型福祉の強固さを最大限強調し、日本があたかも「大きな政府」であるかのようなイメージを喧伝することによって、セーフティネットの構築や増税論議を先送りできることを正当化してきたのである。彼らはつい最近まで、日本に貧困問題があるということ自体に否定的であったが、そこには「旧体制」のセーフティネットの強さに対する奇妙な幻想があったように思う。

今日本で起こっている問題は、ほとんどこの新自由主義と「旧体制」との野合・癒着の帰結によるものであると言っていい。今から振り返ると、2005年の郵政解散選挙は、日本の新自由主義化の極点というよりも、この野合を解体した(それによって自民党の強みが失われた)という点に意義が求められるべきかもしれない。