最低でも2%程度の「経済成長」が必要だというのはよくわかるんだけども、この言葉を使う人たちの無神経さには、やはりどうしても我慢がならないところがある。

構造改革」が逆風を受けるようなったのは2006年ぐらいからである。その背景にはホリエモン逮捕や「格差社会」論の流行もあったのだが、私の考えでは、むしろその頃に「戦後最長の好景気を実現した」ことのほうが決定的であったように思う。つまり、「戦後最長の好景気」にも関わらず、人々は収入の安定や安心から依然として程遠い状態にあり、しかも競争激化や長時間労働の問題などで、かえって体感的な生活水準は悪化している側面があった。さらには、「経済成長」が社会保障費の財源などの問題を解決するどころか、「戦後最長の好景気」の期間中もずっと悪化し続けており、この問題が到底「経済成長」だけでは解決できないことは明白になってしまった。こうして「戦後最長の好景気」の冷酷な現実に直面することによって、不況の真っ只中では依然として存在していた、「景気が回復すれば万事解決」という幻想が完全に崩壊し、「経済成長」へのネガティヴなイメージが急速に定着してしまったのである。

マクロ経済的な視点から「経済成長」を語る人たちも、こうした経緯をよく理解しているはずである。だとすれば、これまでの「構造改革」のなかの「経済成長」路線の何が問題であったのかの分析と総括に、まずは議論の半分以上を費やさなければいけないだろう。そうでないと、「経済成長」の掛け声で同じ失敗が繰り返され、ますます「経済成長」への悲観的な見方が蔓延していくだけだからである。にも関わらず経済成長の必要性を語る人にかぎって、往々にしてその必要性を理解できない人たちの無知を批判することから議論を始めてしまう。そのことは、「構造改革」に対する「市場原理主義」というワンパターンな批判というか非難と、その責任を竹中平蔵のような一握りの象徴的な人物に過剰に負わせる類の議論の横行を許す結果になっている。

さらに悪いことは、経済成長による財政充実への期待を喪失したことで、「高すぎる公務員の給料からぶんどって財源に充てればいい」という、話にならない暴論が急速に力を持ちはじめていることである。構造改革による経済成長の失望が公共部門の役割の再評価に向かうのではなくて、「小さな政府」路線が経済理論を全く欠いたまま推進されていくという、これ以上ない最悪の道に進もうとしている。

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これは余計な話だけど、エコノミストたちってどうしてあんなに官僚の権力や陰謀を過大視したがるのかが、よくわからない。「改革利権」論を陰謀論だと批判しているのはその通りだけど、どうして同じような陰謀論を官僚に対しては平然とできてしまうのかがよくわからない。要するに身内だからなんだろうが、それ以前に国家とか行政とかについて、あまり真面目に考えていない(知識がないのではなく)ような気がする。

(6/15)
去年あたりから素人なりに経済系の議論をウォッチしていて、このひとたちやっぱりなんかヤバいんじゃないかと思うようになった。ヤバイことを言っているのは「市場原理主義者」とか言われている人たちだけだろうと思ったら、なんかそうでもないことが次第にわかってきた。

確かにエコノミストって、「経済学的な常識が政治に反映されていない」という不満を抱えていることが多い。ほかの社会科学分野は、それこそ経済学に比較にならないほど反映されていないし、将来その可能性も全く皆無なわけなんだけど、そんな不満は抱えている人はほとんどいない。

「まともな経済学者はそんな馬鹿なことを言っている人は誰もいない」とか、こういう素人を馬鹿にした傲慢な発言が結構多い。経済学も社会を観察するひとつの物差しに過ぎない(からこそ重要である)のに、なんでそれで社会全体をズバズバ切れるみたいに思い込んでいるのか。

たとえば、今起こっていることを目の前にして、「だから雇用の流動性が必要だ」とか平気で言えてしまう。今の状態で流動性が高まったら、労働者がもっと安く買い叩かれてひどいことが起きるのは明らかだろうとか、そういう常識的な突っ込みが通用しそうにない。

全体最適を考えるのが重要なのは全くそのとおりだけど、「あくまで」という冠詞が抜けている感じがする。全体最適を考えることで過労自殺とかの問題がたいしたことがないような扱いになっている。当人にそのつもりが全くないところが、かえって恐ろしい。

それに、社会哲学の素養が薄いので(別にそれは仕方ないけど)、社会観がかなり単調である。何かって言うと「既得権益層」という悪者が出て、問題がみんなそいつのせいになる。規制緩和を批判すると、自由と多様性を否定するものだとか、社会主義的だとか反論する。しかし、流動性こそが個人の自由を拘束しているとか、共同体は自由行使の条件であるとかなんとかという思想は、町の図書館に並んでいる程度の哲学や社会学の本でいくらでも言われていることだろう。

モリタク氏にしても、あるいはマル系の人にしても、それはそれでなんかなあ・・なところがあり、なんか真っ当な経済学者が日本にはいない感じがする。