自己責任論再考

個人の貧困の問題が「自己責任」であるか否かについて、知的な人たちや良識のある人たちの間では一蹴されているが、現実社会ではまだまだ根強いものがある。

それは決して理由のないことではない。世襲的な身分制度がそれになりに残っていて、貧しい農村に生まれ育った人たちが多かった時代に、その人の不幸が自己責任に着せられることは基本的になかった。それは、生得的に押し付けられた伝統や貧困の問題であって、個人の問題では決してないことは暗黙の了解として存在していた。犯罪者に対してさえ、「育った環境が不幸だっただけで根は悪人ではない」という言い方がかなり通用していた。また知識界ではマルクス主義の影響力が強く、資本主義は自由をもたらすのではなく人々の自由を抑圧するという理解が広く共有されていた。

ところが、1980年代以降になると目に見えるような厳しい貧困や差別は少なくなっていく。それなりに裕福なサラリーマンの家庭に生まれた子供が大多数になり、高校進学率は9割を超え、大学進学率は5割に達するようになった。この結果として、貧しい農家の三男坊で高校にも通えなかったという団塊世代以前の状況はなくなって、高校や大学に進学を選択できることはもちろん、どの高校や大学に進学できるのかも勉強しだいで選択可能であるような状況が生まれていった。生活のために色々なものを犠牲にしてきたという気持ちを持っている団塊世代からすれば、考えられないような状況が出現したのである。

要するに、団塊ジュニアと言われるような世代が「自己責任」論にさらされてきたのは、裕福な時代に生まれて人生の選択肢が無限に存在してきたと思われているからである。つまりこの世代は、受験勉強や就職活動の努力次第で一流大学、一流企業に入り込むチャンスは無限にあったにも関わらず、それをせずに怠ってきただけではないかと言われてしまう余地が多いのである。これに企業社会の成果主義への転換とコスト削減の目論見が絡み合って、「自己責任」論を全社会的に爆発させていったことは言うまでもない。

マルクス主義を捨てた左派の学者やジャーナリストはどうしてきたかというと、女性や在日外国人、戦争被害者といった、依然として生得的な属性で差別されている社会層に寄り添っていくという戦略を採るようになっていく。彼らは、団塊ジュニアを中心とした若い世代に対して、こうした少数者を無視して無自覚に豊かな社会を享受していることの無知や非倫理性を説いていく。1990年代には、同じニュース番組の中で「アジアの戦争被害者の声」と「社会性を失った若者の生態」がよく同時に報道されていたことを思い起こせば十分である。結局左派も、若年層に対する「自己責任」論の爆発に間接的に加担していった。

こうした議論に対して、2000年代の半ばくらいから、実際には機会の平等は経済階層によってかなり限られたものであり、とくに今の貧困者にとって人生の選択肢などはほとんど存在していないという批判が登場するようになった。しかし私は、こうした批判に一方で共感しつつも、そもそも選択可能性と責任帰属とを連動させるような発想そのものに批判的なのである。

たとえば、批判者たちの想定する理想の状態に近い「機会の平等」が実現されたとして、果たしてどうなるのかを想像してみればいい。それでもおそらく、人間社会である限りは不幸な人や社会的弱者が全くいなくなるということはないだろう。そしてそうした不幸な人や社会的弱者が、「ここまで機会を保障しているのに」という言葉によって、ますます「自己責任」の名の下に排除される可能性が強まるに違いない。これは容易に予想されることである。実際現在でも、自己責任論を振りかざす人は日本で「機会の平等」が制限されているという事実そのものをあまり認めない。

そもそも「自分で決めたことだからしょうがない」という、世の中に広く存在する思考様式そのものが私にはよくわからない。自分が自分の人生に誇りをもつという意味ではまだわかるが、自分が選択した道で不幸になった人は救済する必要が(少なくとも相対的には)ない、という理屈になってしまうのはさっぱり理解できない。