「転向」する人と「首尾一貫」な人

「主張の賛否はともかく首尾一貫している」という表現がよくある。これは基本的に褒め言葉である。例えば現在でも90年代と変わらない「構造改革」の主張を堅持している人が、その批判へと「転向」した人よりも相対的に好意的に評価されている。

しかし私は、「転向」を繰り返す人は軽薄で単純だとは思う一方で、そんなに憎めないと言う気持ちも強い。「転向」癖を持っている人は、従来信じていた理想が現実において悲惨な結果となったときに、少なくともそれを真摯に受け止めようとする態度がある。その受け止め方が、あまりにストレートで素直すぎるだけである。

そして、その人自身が「転向」によって高い評価を獲得しているかと言えば、逆に周囲から嘲笑や批判を浴びることのほうが多い。実際、「転向」癖のある政治家や学者は歴史的に見ても決して割に合っておらず、後世の歴史家からの評価は特に散々なものである。これは「転向」癖のある人が、生き方においては必ずしも器用ではないことを示している。

私はむしろ、妙に主義主張が「首尾一貫」している人のほうに不信感がある。「首尾一貫」している人は、自分の主張したことが現実政治においてうまくいかないと、「きちんと理解されなかった」とか、「言ったことの半分も実行されていない」とか、責任を完全に外部になすりつけてしまうことが多い。

そして悪質なのは、首尾一貫した振りをして、人に気付かれないようにさりげなく主張を変化させていることがよくあることである。「貧困問題は日本にはない」と断言していた当人が、今になって「格差はともかく貧困は解決すべき」などと微妙に言い方を変えて、しかも昔からそういう立場だったかのような顔をしている。自分のなかに「転向」があったことを決して認めようとしない点で、そして貧困問題が見えてなかった自らの不明を反省しようともしていない点で、完全に不誠実で無責任である。

たしかに、それまでの考え方を全面的に放棄してしまうような直角的な「転向」は、大きく批判されるべきなのかもしれない。しかし、主義主張が「首尾一貫」しているかのような顔をして、現実に起った問題については全く引き受けようともせず、しかも主張を微妙に変えて世の中の「空気」に適度に合わせようとしている人のほうが、はるかに人間として質が悪いと思う。実際、マスメディアに出ている知識人のほとんどが、おおよそこんなものではないだろうか。