日本型福祉と構造改革の野合についてさらに補足。

私の主張は、ここで散々検討してきた「小さな福祉国家」という日本の世論は、官僚主導型で企業・家族福祉に依存する日本型福祉の伝統を温存する形で、「構造改革」が推し進められてきたことによって形成されてきたということである。

構造改革は終身雇用・年功序列を(偏った形で)解体してきた一方で、企業の外部におけるセーフティネットの公共化の道筋をまるで考えてこなかった。むしろ「骨太の方針」などと、社会保障の歳出を抑制する方向性を高く掲げてきた。せいぜい民間企業の活力とNPOによる社会保障という、アメリカですら健全に機能していない、ほとんど非現実的で国民もまったく望んでいない構想が無邪気に語られるだけであった。

そして構造改革の主導者たちは、日本型福祉が依然として強固に機能していることを、どこかで前提にしていた。それは日本で貧困や格差が問題化しはじめた2005年のころに、彼らが懸命に問題の存在自体を否定していたことからも明らかである。彼らは構造改革を正当化するにあたって、日本国民が日本型福祉の揺りかごの中に安住し、企業にも多大なコストを強いていることが国際競争力の低下の原因だと、繰りかえし力説してきた。構造改革は、日本型福祉が厳然と機能しているという認識に基づいて推し進められていたのであり、だからそれにかわるセーフティネットの構築の必要性を論理的には理解していても、実際はまだまだ先で十分と楽観的に考えていたのである。

しかし、構造改革の主導者たちの見通しが甘かったことは、「ワーキングプア」「介護難民」「医療崩壊」などが問題化する2006年ぐらいから、あまりに明白になってきた。構造改革以降に就職戦線に放り出された若い世代は、この有様を観察して、結局日本では旧来のような大企業正社員の道でしか、見通しのきく人生設計が有り得ないことを強く確信していくことになった。こうして日本の世論は、構造改革の主導者が期待したのとはまったく正反対の、競争と流動性を忌避した、保守的な安定志向へと流されていくことになった。

しかしこのような強烈な安定志向の一方で、、旧来の日本型福祉を享受できる層は、構造改革(のせいだけでは決してないが)を通じて相当限られたものとなっている。そこで、昔ながらの日本型福祉のシステムを享受しているように見える層、とりわけ公務員に対してルサンチマンが向けられやすくなっているのである。それはわれわれの「血税」の無駄遣いだから怒っているのだ、などといっている人は完全にきれいごとである。90年代初めまでは、マッサージチェアどうのこうのなどという瑣末な問題が大きなニュースになることなど、およそ有り得なかったことを想い起こせば十分である。

以上のように、「構造改革」の夢から覚めた一般国民は、相変わらず先細りした日本型福祉の伝統に拠る以外にないというジレンマに立たされており、「小さな福祉国家」という世論はこうしたジレンマの産物として理解することができる。