1990年代以降に、税金についての負担の方法は「受益者負担」の考え方が主流になり、「応能負担」への合意は非常に困難になっている。

しかしよく言われているように、受益者負担の原則は高速料金の負担のように、あくまで通常よりも高度なサービスを敢えて求めるような限定的な場面にしか適用できない。たとえば、この原則を医療や福祉の領域に適用とすると、病気の重い人や障害の重い人ほど(端的な言えば社会的弱者ほど)負担が重くなってしまうことになる。

しかし「応能負担」の原則を復活させるのは、なかなか至難の業になっている。何かというと、国際競争力が落ちるとか、フリーライダーが生まれるとか、(正直なところ説得力があるとは思えない)反論に直面してしまう。とくに「税金を払わなくて済むやつがいるなんてけしからん」という庶民感情には、なかなか抗しがたいところがある。

今思いつく説得の仕方としては二通りがある。前にも似たようなことを書いたことがあるが。

一つには、共同体論的な考え方である。つまり、富裕層も貧困層も同じ社会システムのなかで生きており、富裕層の財産や生活も貧困層が担う単純労働に依存している側面があるのだから、応能負担による再配分は社会を健全に循環させるために当然であるというものである。

もう一は、リスク社会論的な考え方である。つまり、経済競争が激化して過剰に流動化した現代社会では、未来の経済状況については誰も予測不可能であり、あらゆる人は貧困層に転落するリスクを抱えている以上、応能負担による再配分によってセーフティネットを構築しておいたほうがよいというものである。

共同体論の難しさは、「余裕のある人」ほど「フリーター」や「ワーキングプア」のことなど全く考えなくても生活できてしまうことである(「格差社会」というのはそういうことである)。リスク社会論にしても同様で、「余裕のある人」ほどリスクを過小評価し、社会的流動化を自らの問題として受け止めようとしないという現実がある。事実、今思い起こせば「構造改革」の中心的担い手たちは、世襲議員や一流大学教授といった、日本社会において抱えているリスクが最も低い人たちであった。

前にも書いたが、余裕のある人がより多く負担するというのは、論理や説得以前の問題だという気持ちが自分の中にはある。だとすると、富裕層からしばしば語られる、「もうこんなに税金を納めているじゃないか」という、プライドとない交ぜになった妙な被害者意識のなかにある「余裕のなさ」に、問題の根源があるのかもしれない。