最近書いた「小さな福祉国家」についてのまとめ。

最近、日本の世論は社会保障の充実を切実にもとめながら、増税よりも行政の規模を縮小して、そこで「浮いたお金」によって財源を捻出するという、「小さな福祉国家」への道を選好している。

一般に社会保障の充実には不可欠である増税政策に対しては、「まず行政の無駄を削るべきだ」という議論と、「増税は景気を悪化させる」という議論との、二つの反対論によって押さえ込まれている。

しかし社会保障のための増税への世論の合意が獲得しにくい理由には、この反対論に説得力があるというよりも、日本の社会保障制度の歴史に由来する問題が大きい。つまり、日本の社会保障制度は国民的合意というよりも、完全に一部の政治家と官僚の主導によって構築されたものであるだけではなく、1990年代まで家族と企業によるセーフティネットがそれになりに機能していたため、社会保障制度の充実の前提には税金の負担増があるということが、理屈としてはわかっていても、実感としてわかりにくいのである。

では「小さな福祉国家」は可能なのかと言えば、家族・企業のセーフティネットはやせ細っているし、民間企業に「儲からない仕事」を押し付けるわけにもいかず、NPOなどの準公的団体の力量も脆弱である。実際、「行政の無駄を削れ」という世論における社会保障の主体は、やはり行政が想定されている。

「小さな福祉国家」の矛盾を、表面的にすら維持できなくなる瞬間が必ずくる。そのときどのような方向に針が振れるのかは、今のところ想像もつかないのが正直なところである。


「小さな政府」で「大きな福祉」を真正面から主張している人がいた。

 一方、筆者は、政府や自治体が事業の主体となると、競争が働かない中で、非効率的に事業が運営される傾向があるので、福祉的サービスを購入できる金銭的な補助が行われれば、あとは、民間の事業者がサービスを提供するのがいいと思っている。公的な事業(公務員の商売)は、多くの場合、競争に晒されない独占的な事業になるので、商品・サービスにも、コストにも競争が働かない。また、消費者の側に複数の選択肢がないのは問題だと思う。
http://diamond.jp/series/yamazaki/10080/?page=2

ひとつだけ反論すると、介護やごみ収集といった事業は、「儲からなくても放り投げることはできない」から民間企業では限界があるのである。それに、効率化は行政の枠内でも不可能ではないはずだし、行政の効率性と市場の効率性はそもそも質が異なるようにも思われる。それにしても、このような社会的な地位の高くて一見リベラルな風貌の人が、「日本で労働組合は有害且つ無用の存在だと思っている」という前時代的な暴論を平然と活字にできる神経には、はさすがに驚きである。