さらに「軍隊の論理」「不安の論理」の続きというかメモ書き。

昔の日本型企業社会は、新入社員をまったくの無能力状態から一から手取り足取り訓練し、当の企業を離脱してはもはや生きることが不可能であるような人格をつくりあげて、社員の企業に対する全面的な献身と忠誠を期待するものであった。その代わり、社員同士の一体感や団結力は高くて組合運動も力があり、企業もせっかくコストをかけて育てた人材に簡単にやめられると困るので、年功賃金をはじめとして社員に対する福利厚生を手厚くしなければならなかった。

しかし90年代なって高い経済成長が終わり、国内市場が飽和して経済が国際化してくとともに、中国など人件費が激安の市場との競争に迫られることなると、旧来の日本型企業社会の方式は人件費のコストがかかりすぎることが、あまりに明白になっていった。

そこで最近は、労働市場を徹底的流動化するという方法が選好されるようなっている。今の仕事を失うかもしれないという不安に常にさらして置いたほうが、個々人が生き残りに必死になって自己研鑽に励むことが期待されるとともに、企業のどんな理不尽な要求や劣悪な待遇でも否応なく受け入れてくれるからである。不満のある社員に対しては福利厚生でつなぎとめておくよりも、さっさと辞めてもらって次の「即戦力」を探すことが経営として合理的になった。

こうした「軍隊の論理」から「不安の論理」への転換は今から振り返れば、バブルの時代には既にはじまっており、90年代半ばには政財界の基本路線になっていたものである。ところが、この企業社会の転換に対応する社会の仕組みの転換が、今のところうまくいっていない。その原因は、「不安の論理」で生じている問題を、「軍隊の論理」のやり方で解決しようとしてきた点にあると考える。

90年代後半以降の「構造改革」の主眼が、大企業の業績を引き上げるという手法一辺倒であったが、これは個人の生活を全面的に保証してくれる旧来の日本型企業社会が強固であることを前提にしてのみ意味がある手法である。いまでも正社員に雇用した企業には補償金を出すなどという対策が考えられていることなどからも、日本型企業社会の安定性に対する幻想はなお根強い。

就職を控えている若い世代自身も、大企業の正社員層になんとか滑り込もうと必死であるが、「軍隊の論理」が通用している企業は、もちろん今でもあるにしても、もはやかつてのように日本社会のモデルにはなり得ない。実際、苦労して正社員層に滑り込んだ氷河期世代の30代が、企業から「使い捨て」にされているという報道があちこちから出始めている。(http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090514dde041040032000c.html

どういうわけか、企業社会外部のセーフティネットの拡充というヨーロッパ型の手法への選択は、この10年の間ほとんど国民的な議論にならなかった。福祉の重要性を訴える左派も、増税論議を徹底的に避けて、かえって官僚政治批判や公共事業政治批判の文脈で、「小さな政府」路線を後押していった。生活が楽ならないという不安やルサンチマンを抱える国民は、公務員など「必死に働いてないのに高い給料を貰っている」人々を敵視するようになっている。そのことは、「福祉重視」で「格差や貧困の解消」を望んでいるにもかかわらず、公共部門の縮小や民営化など(もちろん増税にも大反対)の「小さな政府」路線を支持するという、矛盾だらけの奇妙な世論を構成している。

昨年の金融危機以降、金融工学の手法による「市場原理主義」こそ批判されるようにはなっている。しかし、むしろ徹底的に問われなければならないのは、社会保障の問題の大部分を企業に預けてしまうような、旧来の解決方法の妥当性なのである。もしこの妥当性が問われないまま企業の業績拡大よる雇用創出という路線ばかりが推進され続けるとしたら、「すぐクビなっちゃうから会社の言うことは何でも絶対服従しなきゃ」というように、「軍隊の論理」と「不安の論理」の双方の不自由さが倍加して、ますます個人を窮屈に締め付けていくようになるだけである。