前回の補足。

「軍隊の論理」というのは、人間を一から手取り足取り訓練して、組織のために全身全霊を傾けるような人格に育て上げることを目標とする。簡単に言えば、長年「会社人間」と揶揄されてきたような、「組織を離れたら役立たず」な人間にしていく。

「不安の論理」は、人間を厳しい生存競争のなかに陥れて、組織のどんな理不尽な要求でも受け入れさせる。つまり年がら年中「中途採用」をやっている「ブラック企業」のように、「代わりはいくらでもいるから嫌ならやめろ」というわけである。

構造改革」を現在でも唱える人たちは、組織に縛られない多様な生き方という、「自由」の側面ばかりを一方的に喧伝してきた。その歪みは最近、労基法違反が常態化している雇用の問題についての彼らのコメントが、「違法に対しては行政がしっかり取り締まるべき」という以上のことが、全く言えていないことに端的に表れている。つまり、違法の動機となっている「不安」の存在について手当てを考える前に、まず行政権力によって解決を図ろうとするのである。「自由」をラディカルに主張して「小さな政府」を推し進めてきた構造改革論者が、最終的に問題の対処を直接的な強制力に依存するしかないという、なんと皮肉な結末になっている。福祉からこぼれ落ちた障害者が刑務所へと収容されているということが問題になっているが、これもこの文脈で理解可能である。

そして左派の人たちも、「軍隊の論理」の暴力性ばかりに焦点を当ててきて、「不安の論理」のもたらす不自由さを全く見通すことが出来ておらず、むしろ消極的に是認さえしていた。共産党はともかく社民党などが雇用の問題で大きな声を上げている姿には、正直なところ非常に複雑なものを感じる。