この10数年ほどの間に、人々を組織化する論理が「軍隊の論理」から「不安の論理」へと転換している。

軍隊の論理というのは、ルールを徹底させ、厳しい訓練を施し、組織とそのリーダーに対する忠誠を誓わせるというものであり、少し前までの日本型企業社会はまさにこの論理で組織化されていた。

最近はそうではなく、人々を不安に陥れる環境を整備すればいい、という手法が主流になった。つまり、少しでも気を緩めると会社が潰れる、簡単に首になる、そして首になったらたちまち生活が成り立たなくなってしまう、という状態に人々を追い込む。こうした不安を最大限利用して、経営者(もちろん彼自身も不安のただ中にある)は有無を言わさずどんな理不尽な要求でも社員に平気で要求することができる。

軍隊の論理では職場外の付き合いによる団結と忠誠心の強化が奨励されたが、不安の論理ではむしろそれを否定する。いざとなっても誰も助けてくれないという状態を維持したほうが、命令に従わせるには好都合だからである。だから職場の環境がキツくて簡単にやめていくことは、むしろ好ましいことであり密かに奨励されている。

この結果どうなったか。少なくとも日本について言えば、特に若者の間に会社組織に全面的な忠誠を誓うような労働者を激増させているし、「ブラック企業」とよばれるような劣悪な労働環境の企業が淘汰されることもなく、日本のリーディングカンパニーとして大手を振って闊歩している。不満の声はあちこちから出始めているが、他の国と比べてもあまりに小さいことは明らかだろう。軍隊の論理が全盛の時代のほうが、もう少し声は大きかったように思う。

振り返ってみれば「構造改革」というのは、こうした「不安に追い込む環境」を整備することであった。問題はこれが、「選択の幅が広がる」「多様性が高まる」「経済成長を促す」といったような、誰もが否定できないリベラルかつ経済学的な正論によって正当化されていたことである。だから、過去の軍隊の論理がその全盛期においても左派の学者やジャーナリストによって徹底的に批判されたのとは逆に、「構造改革」はつい最近まで全くと言ってよいほど批判されてこなかった。むしろ「軍隊の論理」の否定の文脈で、構造改革による「不安に追い込む環境」の整備を結果的に容認していったのである。しかしその結果は、左派が追求してきた個人の自由や多様性をますます否定していくものであった。

まだ誤解している人がいるが、「小さな政府」と自由や多様性とは論理的に何の関係もない。「小さな政府」というのは、教育から介護に至るまでの負担を個人化していくという以上の意味はない。むしろ、家族や地域、NPOなどによるセーフティネットが脆弱なところ(まさに日本がそうだが)で「小さな政府」を推進すれば、人々はますます不安に追い込まれていき、自由や多様性は「生き残るためにはしょうがない」という論理で押しつぶされていくことになるだろう。