「北風」の新入社員の意識への見事な効果
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社会経済生産性本部から昔の日本生産性本部に名称復帰したJPCが、毎年恒例の新入社員意識調査を公表していますが、

http://activity.jpc-sed.or.jp/detail/mdd/activity000914/attached.pdf

>1.担当したい仕事は「チームを組んで成果を分かち合える仕事」が過去最高(83.5%)
2.「今の会社に一生勤めようと思う」が昨年に比べ大幅に増加、過去最高(55.2%)
3.「良心に反する手段でも指示通りの仕事をする」が過去最高(40.6%)
4.「仕事を通じてかなえたい『夢』がある」が4年連続で増加、過去最高(71.6%)

という見事な結果になっています。

しかも興味深いのは、後ろのグラフを見れば一目瞭然ですが、この傾向は「構造改革」が熱狂的に唱われたこの十年間を通じて、着実に増えてきていることです。

結局のところ、終身雇用・年功序列という旧来の日本型企業社会にしか、安定した人生設計モデルを描けない、というところに根本的な問題がある。

構造改革」派が解体しようとしたのは、この日本型企業社会であった。企業の正社員というだけで将来の生活が約束されているという「ぬるま湯」の環境が、日本経済の国際競争力を停滞させていると力説してきた。上の世代の利権構造や既得権を解体して、不満をもった若い世代の活力の底上げを図るべきだ、そう主張してきた。その結果がこれである。

構造改革」派はそれでも、「改革がまだ足りない」と言い続けるだろうし、エコノミスト連中も「経済理論に従った政策はほとんど実行されていない」と強弁するに違いない(当たり前だが、どの学問もそのような特権的な地位を得たことはないし、これからも有り得ない)。現実の壁を真摯に直視するのではなく、現実を軽蔑して自らの正当性や知的優越性のポジションを絶対に崩そうとしない。批判があると、「経済を理解できていない」の一点張りで、どうして誤解されているかについて真剣に悩もうともしない。こうした、一見良心的な顔をしつつ世間を徹底して見下しているその姿は、かつての左翼の社会主義者護憲派の姿に重なる。

新自由主義が間違っていて社民主義が正しいのではない(そもそも両者は論理的に矛盾していないはず)。「日本はスウェーデンに比べて遅れている」という観念の下で「改革」を行っていたら、やはり「構造改革」とは違った形で失敗の轍を踏むことになっただろう。日本における現実の政治社会構造を単に否定すべきものと断罪し、精神的に余裕のある安定した生活というほとんどの人が抱く平凡な望みを勘案しないような「改革」は、その中身が何であれ必ず失敗するのである。

このアンケート結果で「夢」が増えているというのが気になるが、どういう意味なんだろうか。あとでまた考えたい。


続きがありました。自分が言いたいことをズバリという感じです。

だから、そういうふうにバラマキけしからん、福祉けしからん、そんなのは社会主義だ、共産主義だと、罵倒してしばけばしばくほど、労働者は、とりわけ若者は企業にしがみついて、何が何でも離すまい、というふうになるというのがわからんのだなあ。

北風を吹き付ければ、人は外套を脱ぐという単細胞的世界観の持ち主には、暖かい太陽で脱がせてみようなどという発想はかけらもなく、北風だけで効かないなら、雪を降らせてやろうか、吹雪を吹き付けてやろうか、とますますエスカレートする。外套をうかつに脱いだら凍え死ぬと分かっているところで脱ぐ莫迦がいるものか。

負のループを作っているのはあんたらだろう。悪い均衡にロックインさせているのはあんたらだろう。20年以上頭が凍結しているのはどっちだか・・・。

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少し話がずれるが、まさに「既得権」批判による「改革」が「既得権者」を再生産してきた。これは、現実の人々の行動において既得権への固執を強めたという意味もあれば、従来であれば何もいわれなかった人たちまでが、「既得権者」のレッテルを貼られてバッシングされることが起こったという意味での「再生産」の意味も含んでいる。

2000年代以降における日本の政治経済の世界では、そういうレッテルを貼られることが政治的・社会的に致命傷になった。そのように見られたくがないために、政治的な敵対者に対してはともかく、郵便局員を、公務員を、そして高齢世代の正社員層までもを「既得権者」として罵倒し続け、自分たちを「改革者」として位置づけてきた。それも、「世襲議員」や「一流大学教授」という肩書きを厳然と持っている人たちが、である。政治家をやめても弁護士やタレントとして十二分に食っていける人が、仕事をやめると路頭に迷うだけの一般の公務員や学校の教師を怒鳴りつけて支持率と高感度を上げたのは記憶に新しいが、まさに民主主義の堕落もここまで来たかという感じである。

政治の成果がなかなか出ければ、どこかに「既得権者」を見つけて彼らの責任にしてしまえばいい――これが2000年代以降の日本の政治的風景であり、国政レベルではともかく、最近の地方首長戦の結果をみると、この手法はまだまだ衰えていないことがわかる。彼らは「福祉の充実」を口で叫びながら、その担い手である公務員を削減し、税収を上げるための税制改革をしようともせず(むしろ減税を行おうとしている)、専ら「民間の活力」という最も労力の要らない無責任な手段に委ねようとしている。

この10年間の「改革」の無残な成果を見れば、これがいい結果をもたらすことは万が一にも有り得ない。当然ながら、従来型の中間層はこれからもどんどん先細りしていくことになるのだろうし、「負のループ」もエスカレートしていくことになるのだろう。