在日がどうして「特権者」と見られるのかといえば、「立場の弱い少数者」であることを前面に押し出して自己主張を貫けるということに尽きると思う。

2000年代以降に一定の正社員層を含む不安定・下層労働者が拡大し、社会保障制度も完全に先細りになっている。従来は安定正社員層に入るべき若者が派遣やフリーターとなり、高齢者の年金額も過去に期待していたものより下がる傾向にあり、なにより老後を頼るべき息子たちの経済状況も不安定である。

こうして、民族的には圧倒的多数派の日本国民のなかに、潜在的に「立場の弱い少数者」であるというルサンチマンを抱える人々が増えていった。しかし、日本の平凡なサラリーマンの家庭でなに不自由なく生まれ育ち、そこそこの大学にも行かせてもらって・・・・という人々は、現状における自分の苦境を「社会の責任だ」と語る言葉を何一つもっていない。だから語る言葉を強力に持っている在日に対して、羨望の入り混じった憎悪を抱いてしまう。要するに、「普通の日本人」は、どんなに社会的な不利益をこうむっても、「自己責任」「努力が足りない」と言われて返す言葉もないのに、在日は「植民地支配の遺産」を盾にして、自分の問題を日本社会の責任にしているように見えてしまうわけである。

これは在日が現実にそうだったいうよりも、主にマスメディアで流布したイメージによるものである。例えば少し前まで(今でもいるが)、在日のアイデンティティについて「二つの国で引き裂かれた生が・・・・」などと、大仰な表現で「理解」する学者がたくさんいた。しかし、普通の日本人の若者がアイデンティティで悩むと、「最近の若者はつまらないことで・・・・」などと説教され、あげくは「自分探し症候群」といった「病名」をつけられて終わりであった。これは一つの例だが、同じ問題を抱えても在日は「理解」「同情」され、日本人だと説教されたり社会の歪みとされたりするという、こうした状況は確かにあったと考える。

もちろんこれは十分な理由があってのことであり、少なくとも90年代初頭まではこの理由が通用した。日本国民のなかに少数者の主張を受け止めるだけの、精神的・経済的な余裕が十分にあったからである。困ったことに新聞などの大手メディアは、これがまったく通用しなくなっている今になっても、過去と同じ論理で在日や外国人を擁護しようとしているが、全くの逆効果にしかなっていない。