在特会」ら、ノリコさんが通う中学前でデモ行進 「カルデロン一家を日本から追放しろ!」
  フィリピン人カルデロンさん一家の強制退去問題で、「在日特権を許さない市民の会」(略称「在特会」)などの市民団体が、4月11日埼玉県蕨市内で、「犯罪フィリピン人カルデロン一家を日本から叩き出せ!」と一家を名指ししたシュプレヒコールをあげながらデモ行進し、ノリコさんの通う蕨第一中学校学区内、中学前を練り歩いた。JR蕨駅前では、このデモに抗議する市民の有志で構成される「外国人排除デモに反対する会」と口論する一幕もあった。なお、ノリコさんの両親はこの2日後に帰国する。

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200904120944090

いろいろ難しく解釈している人もいるけど、要するにこういう運動の背景にあるのは、「法律を犯しているのに外国人というだけで特別扱いを受けるのは不公平だ」という素朴な正義感である。日本人も外国人も公平に法の裁きに服するべきだ――こういう誰もが否定できない素朴すぎる正義感が、結果的として「なんで外国人ばかり同情されるのか」という排外主義的な態度につながっていく。そもそも排外主義というのは、単なる民族感情からではなく、こうした素朴な正義感に支えられていると言えるだろう。だから問題は、常識人がおよそそうしているように、素朴な正義感をほどほどにして矛を収めることなく、エスカレートしてしまうのはどうしてなのか、ということにある。

この問題をどうとらえるにせよ、今の多くの日本人にとって「在日」はもちろん「外国人」一般は「かわいそうな弱者」ではない、という端的な事実に向き合う必要がある。外国人労働者は日本社会で当たり前になったといっても、やはり具体的に付き合いのある人は相対的に少数派だろうし、その存在も具体的な人ではなく、学校教育やマスメディアを通じてはじめて知ることが多い。むしろそうした媒体から外国人問題を理解しはじめると、外国人というのは何か人生上の苦労や苦痛があっても、マスメディアや学者に「自分たち日本人より」同情的に取り扱ってもらえるという歪んだ印象が強まりやすい。それどころか、身の回りの日本人に過酷な働き方をしている風景が広まるにつれて、メディア上では社会的支援の対象として扱われる外国人労働者は「恵まれている」ようにすらみえてしまう。今回の問題で素朴な正義感が排外主義へと過激化し始めているのは、おそらくはこうしたルサンチマンが、「日本人が法律を犯せばただの犯罪者でしかないのに・・・」という不公平感を増幅させていることがある。

しかし、絶対にやってはならないのは、彼らの主張のロジックの底の浅さや非実証性をあげつらうような、知識主義的な批判である。それは、「素朴な正義」の論理を掲げる彼らには全く届かないどころか、「なんか馬鹿にされている」というルサンチマンを溜め込み、逆効果になることは火を見るよりも明らかである。むしろ、この問題は外国人問題というよりも、「派遣村」に対するバッシングと共通の、行政や政治に対して声を上げて要求するということ自体への反感、さらに言えばそうした要求が可能な「弱者」であることの指標を高く掲げることができる、「特権者」への反感として理解すべきである。なぜ不当にも「特権者」に見られてしまうのかというのは難しい問題だけど、少なくともこの問題に関しては、「恵まれた日本国民」と「弱い立場の外国人」という対立図式を一度取り払って考えることが絶対に必要である。


どうもブックマークのコメントであまり伝わってない感じがしたので、もっとコンパクトに。

(1)このデモ隊の連中の基本的な主張は、外国人を自分たち日本人とちゃんと公平に扱ってくれ、というきわめてシンプルもの。排外主義的な態度と感情は、それ自体は否定できないこの「素朴な正義感」がエスカレートした結果であって原因ではない(どこの国でもそう)と考えるべき。

(2)この事件のような排外主義的な主張や動きは、「外国人」であることで政治や行政に不満や要求を訴えやすい(少なくともマスメディアの報道で同情的に取り上げられるのでそう見える)ことに対する、潜在的に社会的な不満をかかえている(「弱者」と自己呈示しにくい)多数派日本国民の不公平感の表出として理解したほうがいい。

(3)彼らの現状認識は高校生でも論破可能なほど「馬鹿すぎる」ものであり、それを過大に取り上げて知識や理屈で批判しようとすれば必ず逆効果になる(過去の「歴史教科書をつくる会」の劣悪化がいい例)。解決の手がかりを求めるとしたら、主張の水準ではなく、彼らの不公平感の根源に何があるのかという社会的な水準に求めるべき。具体的に何かと言われると難しいけれど。

 付け加えると、周囲で実際に排外主義的に主張をしている人に、面と向かって批判することは(説得できるどうかはともかくとして)むしろやるべきだと思っている。私がやるべきではないといっているのは、彼らに届かないようなところでの「頭のいい人」同士での内輪の批判や悪口であり、それは「排外主義者」たちの疎外感をかえって強めるだけであると考える。


(4/17)
一番いいたかったことが、やっぱり全然伝わってない。外国人労働者や「在日」という「恵まれない少数者」という社会的な負のカテゴリーをあらかじめ背負っていることで、行政や社会に対して声を上げて責任を権利を要求しやすい立場にあることが、「特権者」ということの意味である。現実にそうだとは全く思わないが、外国人労働者や「在日」であれば無条件に「同情」「理解」を寄せてきたマスメディアが、そういうイメージを振りまいてきてしまったのではないかということ。そして多くの日本人が、雇用の流動化とセーフティネットの弱体化で、精神上・経済上の余裕を失いはじめ(もちろん外国人だって同じかそれ以上なのだけど)、外国人労働者を無条件に「恵まれない少数者」と見れなくなってしまったこと。この部分を全く見ないで、表面的な主張だけを批判しても、あまり意味がないどころか逆効果であること。もし批判にするにしても、真正面から「熱意」や「怒り」で批判するべきであって、知識に物を言わせて茶化したり馬鹿にしたりしないこと。

ちなみに「素朴な正義感」というのは皮肉ではなくかなりベタな意味で使っている。最初から「無知や偏見に基づくレイシズム」しかないのであれば、誰も共感を寄せるわけがない。素朴な正義感を基礎にしているからこそ、政治的な中立派を取り込むことができているのである。これが理解できないと、この問題は全く解けないんじゃないかと思う。