議論について

なぜ日本人は議論ができないのか

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以上のような理由で、議論ではなく事前の打ち合わせで事を穏便に済ませようという気分になるのだと思われる。大きく分けると「論理が優先されず、気持ちが大切である」という点と「共感のなさ」だ。共感という言葉は二つに分離している。一つは男性的でリーダーが相手を慮らないという文化的指向と、集団主義で相手の利益を想像しながら事を進めるという傾向だ。だから相手を考慮しているのに共感していないという一見複雑な状況が見られる。


日本人が議論ができない、というのはそれこそ日本人論の定番中の定番なのであるが、私は世間が「議論」と読んでいるものには二つのタイプがあるのかなと思った。

(1)文字通りの「論戦」であり、意見が異なる相手を「論破」あるいは「説得」することを目標にするものである。議論における勝ち負けがはっきりしており、それは実証性と論理的な整合性という価値中立的な(少なくともそう考えられている)基準によって決定される。

(2)いわゆる「話し合い」である。これは相手を論破することが目標なのではなく、相手の話をじっくり聞くことで、その心情や立場を内在的に理解しようとするものである。お互いが合意することがあるとしたら、それは意見が一致したからでは必ずしもなく、「これだけじっくり話し合ったんだから」という、話し合いの「場」を共有することで納得し合っているのである。

「日本人は議論ができない」という場合は、基本的に前者の意味における議論が苦手であるということを意味している。しかし、われわれが一般的によく言う、「もっと議論を重ねて」という場合の「議論」は、実質的に後者のことを指していることが多い。実際のところ、自分も含めての話、両方の「議論」を混同して理解している人が大半ではないだろうか。

『朝生』的な議論と言うのは、純粋に(2)ではない。むしろ(1)(2)の両者の悪い面がかけ合わさった、その意味ですぐれて「日本的」な議論の方法であると言ったほうがよい。ある問題についての賛成者・反対者をはっきり分けている点では、(1)の「論戦」であるように見えるが、議論に勝っているように見える人がどういう人かと言えば、明らかに論理や実証で説得している人ではなく、「場の空気を支配している」人であるという意味では(2)の要素が濃厚である。

つまり「論戦」が論理実証性をめぐるものではなく、「場の空気」をめぐるヘゲモニー闘争になってしまっている。だから、人の意見はいっさい聞かずに持論を滔々と述べ、反対者に対しては説得するのではなく、「空気で圧殺」させてしまうという手段に出る。反対者を「空気の読めない馬鹿」に見せることに成功すれば、当人が依然として全く納得していなくても、それで議論は「大勝利」である。こういう手法を全面的に推奨していたような学者さえいたと記憶しているが、この手法が政治の世界にまで持ち込まれたのが、まさに2005年の郵政解散選挙であったと言える。

「日本人は議論ができない」のは、別にかまわないんじゃないか、という気持ちもかなりある。むしろ『朝生』的な議論が横行するほうが問題である。