負担の社会化

今の日本で起こっている問題の大半は、「財源がない」という非常にシンプルな問題に由来している。どういう手段でもいいから、税金を上げなければいけない。これは、非常にはっきりしている。GDPに対する税収比較だと、世界のなかで例外的に強い個人主義志向の社会であるアメリカと同じ水準である。(参考http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5105.htmlアメリカでも様々な問題が深刻化しているのに、なんだかんだいって「お上頼み」の強い日本人が、おなじ税金の水準でやっていけないことは明らかである。

1970年代以降の先進国は、高度経済成長が終焉すると同時に「福祉国家」の完成を経験した。国家が国民の社会生活の全てをフォローするようになり、どの国も戦前の水準に比べれば圧倒的に「大きな政府」になった。それまで社会保障の財源は、高度成長のために放っておいても増えるという状況に依存していた。だから高度成長が終わった後、持続的な教育・社会保障の財政負担をどうまかなっていくのかということが、先進国が直面する共通の大きな課題となっていた。そしてその課題を解決する方法として、財政負担を「個人化」するか、それとも「社会化」していくかという、二つの方向へと分かれていったと言うことができる。

「個人化」とは国家の財政負担の荷物を、個人や民間企業・市場に任せて、国家自身の「身を軽くする」ことである。「社会化」とは、負担を税金や社会保険という公的な制度の強化によって対応することである。介護の問題で言えば、個人・家族や民間の介護業者の自助努力に委ねるのが「個人化」であり、税金や保険料を上げるかわりに公務員(および準公務員)などが介護を引き受けるのが「社会化」である。いうまでもなく、前者の代表がアメリカや日本であり、後者の代表が北欧・西欧である。

日本では後者の「社会化」を「負担増」とを同一視する傾向があった。しかし実際のところ、個人化でも社会化でも負担の総量は全く変わらない。両者は負担の配分の方法が異なるだけである。その論点は負担が増えるかどうかではなく、どちらの方法が全体として国民の負担感を弱めることができるのか、そして負担のための財源をより多く安定的に確保できるのかという話でしかない。「北欧では社会保障は手厚いが税負担も高い」という言われ方がよくされるのだが、これは正確な表現ではない。

日本で負担の社会化が進まず、むしろ個人化の方向性が好まれたのは、家族、企業そして公共事業による広い意味での「福祉」が機能していた、少なくともそう思われていたからである。つまり、「税金上がるくらいだったらウチでなんとかしたほうがいい」というわけである。ある程度までこれでやっていけたし、個人的にはこういう伝統を全て切り捨てたくはないという気持ちも強いが、やはり今は限界に来ていると思う。

もし政治家が本当に真剣に増税を考えているのなら、それは「負担をお願いする」のではなく、「負担を社会化していく」という表現をしたほうがよい。「社会化」ではなく「公共化」「国民化」という表現でもなんでもいい。「なにきれいごとを」という人もいるかもしれないが、これは真面目な話である。「負担をお願いする」では税収増までしか意味しない、つまり数字上の歳入が増えたところで政治の責任が終わってしまうが、「社会化」という言葉を使えば、たとえば現在現場と家族だけに集中している医療や介護の負担が、実際に分散されているのかどうかを見届けるところまで、政治の責任が生じる。少なくとも、「ムダを徹底的に減らす」という、事実上負担を現場に丸投げしているだけの無責任な発言だけは、もうやめてほしいと思う。