パイを増やす

前回の続きというか繰り返し。

よく「パイを増やさなければ」という表現が出てくる。もちろんパイは大きいほど大きいほうがいいに違いはないのだけれど、少し考えればこれはかなり怪しげな考え方である。

第一に、パイを公平に再配分する仕組みが整ってなければ何の意味もない。逆に、パイを増やすための末端労働者の労力が増えるだけである。だからパイを大きくする政策を優先すべきではない。私が「経済成長」を最初に掲げることに反対するのは、この単純な理屈以上のものではない。

第二に、先進産業諸国でパイを増やす方法は、日本に限らず簡単なものではない。エコノミストのなかには簡単であるかのような口調で言う人がいるが、うまくいかないと、「官僚が仕事をさぼる」「既得権にしがみつく」という精神論になることが多い。

第三にベタな話になるが、人間はパイという一国の経済力を増やすために生きているわけではない。国民が自らの生活を防衛するために、結果的にパイを減らす行動をとったとしても、それは決して非難できないし、また非難すべきものではない。

「経済成長」は必要かといわれれば、それは必要である。しかしそれは、あくまで国民生活の安定化のための経済成長に限ったことであって、それ以外の「経済成長」であっては困るのである。「パイを増やす」という言い方は、数値上のGDPが増えるのであれば、経済成長の中身が何であれ、とりあえず何でも許容されてしまう。国家の再配分機能が機能していないことが問題の根幹なのに、「パイ」という比喩はそれを覆い隠してしまう。それは、やはり間違っていると考える。

この飯田という人のようなエコノミストを批判すると、「いや彼もそれはわかって言ってるんだ」という人が必ずいる。もちろんそうなのだけど、単なる不勉強なら私もこの人の記事をスルーしていただけである。「わかっている」「頭のいい」「勉強している」人が、ああいう能天気な結論になってしまうからこそ問題だと考えるのである。ちなみに、「経済学を知らない」という批判は、経済の素人を言語道断で黙らせるための物言いでしかない。同じ社会科学である法学や社会学などは、恥ずかしくてこんな言い方は絶対にできないはずなのだが、経済学だけはなぜか通用してしまっているところがある。

追記(2/4)

「パイを増やす」ことを目標にした経済政策を批判すると、「経済がわかっていない」みたいな批判を受けることが多い。

私が「経済成長」論に批判的な第一の理由は、現在の日本で政治やマスメディアでそれを掲げている人が、例外なくパイを増やした後の再配分の方法にあまり関心を持っていないことである。ブックマークでも、景気回復自体が再配分などと言っている人がいるが、明らかにおかしい。今の経済構造と社会保障制度のままで「景気回復」しても、一部の大企業正社員以外の労働者は、せいぜい「仕事の量が増える」だけである。難しい専門用語を駆使して経済を論じる同じ人が、再配分については経済成長すると自動的に国民生活が改善されるかのような、やたらに素朴な言い方で済ませていることがが多い。格差や貧困の問題にも、一般的に言って冷淡である。

経済成長と再配分は同じ分量で論じられなければならない。残念ながら日本では、経済学者が政界やマスメディアで圧倒的な影響力をもち、結果として前者ばかりにしか関心を向けてこなかった。法学者や社会学者などは逆に再配分の話に関心が偏っているきらいがあり、その点の違和感は実のところ飯田という人と若干共有しているつもりではある。しかし、彼ら再配分派が政治的に強い発言力を獲得したことはこれまでなかったし、今でも特に強いとはいえない。

「パイを増やす」ことと「パイを公平に切り分ける」ことは一緒に論じるべき話であり、むしろ思考の順番としては「切り分ける」ルールを設定してから、その後に「増やす」方策を考えるべきであるが、メディアに出てくるエコノミスト連中は「増やす」話ばかりしかしてこなかった。だから90年代末以降の「構造改革」が推し進めたように、規制緩和によって供給側の過剰状態と競争激化を招き、労働者の低賃金化と長時間労働を促進することになっても、「全体のパイが増えているからよいのだ」という話になってしまう。そしてパイを増やすためには、さらなる規制緩和が必要だと言い続けている。私は、やはりよくないと考える。

そして、「パイを切り分ける」話をしてこなかったからこそ、「好景気」の間でも日本人の「体感景気」は悪いままで、かえって生活保守主義的な傾向が強まり、「経済成長」は鈍いままであったと考えるのが、やはり自然である。2000年代の規制緩和政策は、かえって「既得権」に固執する人を増やしたように思われるが、それは人情としても経済合理性としても当然の態度である。

ブックマークで「パイが小さくなったら奪い合いになる」とあるけど、そもそもパイが大きくなったら「奪い合い」が終わるのだろうか。今の経済体制のもとでは、大きいパイを奪い合うために競争が激化する可能性もある、と考えるのが自然ではないだろうか。「奪い合い」を収束させていきたいのなら、それはパイの大小と別の次元で議論すべきである。

「そもそも経済成長政策→仕事の激化と貧富の拡大、現に俺の生活は苦しいまま、という論法に違和感を感じる。経済成長が起これば、設備投資が進み、手順の合理化、もしくは合理化できない組織は淘汰されていくから、実質の労働時間は下がっていく。だから、労働時間の激務は、法整備とか、属する業界の分布図とか体質に依存している面もあると思う」と書いている人がいるが、これは単なる論法ではなくて2000年代の日本社会の現実であったわけで、この現実に脇に置いた「経済成長論」にはどうしても納得できない。

「とにかく経済成長しなければ国民にパイを分けることもできない」ではなくて、「国民一般の生活を改善するためには、どのような経済成長が可能で適切か」を語ること。「国民の生活改善」が目的であって、「経済成長」は手段でしかないこと。一般的に経済成長は望ましいことだが、「経済成長」であれば何でもいいわけでは決してないこと。つまらないようだが、ただそれだけの話である。

(訂正)2/6

2/1のエントリで「今の日本で「経済成長」を目標とする解決法は徹頭徹尾間違いである」というのは、さすがに言いすぎなので、これは撤回します。「今の日本では『経済成長』をイの一番の政策目標に掲げるべきではない」というこです。