筑紫哲也と新自由主義

冷戦崩壊以降の政治的な対抗軸を、市場競争重視の「新自由主義」と、再配分重視の「社民主義」(第三の道)の対立として総括できるとすると、日本における顕著な特徴は両者が90年代から2000年代にかけて、ほとんど共闘関係にあったことにある。

その象徴が、先日亡くなった筑紫哲也である。筑紫哲也は普通に考えれば日本の社民主義勢力を代表する人物であるが、靖国問題を除く「小泉改革」には(少なくとも郵政解散選挙までは)概ね肯定的であったし、竹中平蔵が入閣する際にはかなり熱い期待を寄せていた。田原総一朗などは筑紫などよりもさらにもっと明快で、今でもなお懸命に声を張り上げて「小泉改革」を全面的に支持している。

社民主義の政治思想には当然ながら、市場原理の負の側面に対する懐疑や警鐘が伴っているはずである。しかし日本では、奇妙にも社民主義者のジャーナリスト・学者が、「民間でできることは民間に」という構造改革路線をこぞって支持していた。社民主義はどう考えても、新自由主義に比べて公的機関の役割が重要になることは明らかなのにも関わらずである。

この理由がどこにあったかと言えば、一言で言うと「日本社会の古い体質」を否定・克服するという方向性を共有していたからである。つまり、官僚支配、温情主義(パターナリズム)、縦割り行政、横並び意識、閉鎖性・・・などなどである。具体的には、田中角栄以降の大規模な公共事業政策が、そうした古い体質を温存するものであると批判された。公共事業政策が現実に財政赤字の膨張を招いたことで、こうした批判は広く支持されるようになった。

筑紫が信奉していた丸山真男が典型的だったが、戦後の日本では奇妙なことに社会がうまく行っていないと「日本社会の固有の構造」に問題を求めてきた傾向がある(逆にうまく行っていると自国賛美になりがちなのであるが)。その結果、「改革が必要だ」と考える圧倒的大多数の人は、経済成長重視(新自由主義)か再配分重視(社民主義)という重要な政治経済上の対立軸を忘却したまま、「古い体質」を解体することばかりに血なまこになってしまった。「小さな政府」というのも、少し前までは市場原理的なものとしてではなく、官僚主義やバラマキ財政という悪しき日本の政治構造を克服する新しい政治理念として理解されており、社民主義者にとってもNPOなどの下からの社会運動を正当化するものとして支持されたのである。

その結果として、政治的場面では新自由主義の「小さな政府」路線が一人勝ち状態になってしまい、もともと社民主義者の描いていた未来像とはまったく逆の方向に進んでしまった。地方分権地方財政の崩壊を加速させ、東京資本の企業や店舗の誘致合戦という「再中央集権」化をもたらし、女性の労働市場への進出は体力や出産に問題によって排除される構造をかえって強めている。

こうした責任の一端は、規制緩和による市場競争路線に徹底的な懐疑を示すべきところを、「古い体質」を解体するという点で諸手を挙げて賛成してしまった、筑紫のような社民派の知識人にもあったように思う。現在皮肉なことに、共産党やとくに国民新党にいるような、社民主義者が批判してきた「古い体質」を代表するような人々が、最も明快な弱者救済・再配分路線を力強く主張している。

そもそも当たり前のことだが、「古い体質」が本当に悪いかどうかというのは、もっと具体的に精査されるべき問題であった。「世界の中で日本だけが変わり者で恥ずかしい」という日本人の中にあるコンプレックスを、新自由主義者社民主義者も強固に共有していた。竹中は「金融危機」が到来した後でもなお、依然としてそうしたコンプレックスを利用して「外国よりも改革が足りないから株価が下がる」という、失笑ものの主張を平然と展開している。いい加減目を覚まし、「日本だけが世界の中で・・・」などという論理から政治や経済の問題を考えるような習性そのものを、根本から改めていく必要があると言えるだろう。