市場原理的な社会保障

 自分の顧客資産を生かして再度サービスの販売でのし上がった人もいますし、40過ぎてjavaを覚えて新しい領域のエンジニアになり今でも前線で活躍している人もいます。工場勤務時代の経験を生かして、最先端の工場運営についてコンサルティングをしている人もいます。
 しかし、そのように再チャレンジすることを拒否し、ただ会社にいて高い給料をもらうという選択をした人たちもたくさんおりました。
 仕事が無いので現場において置けないので、ビジネスマネジメントとかクオリティコントロールなどという間接部門(正確な名前はもう忘れました。意味不明な横文字言葉が多すぎるのも悪いところです)が置かれ、そこに大量の使えない人があぶれていました。
 彼らは9時5時でネットを見たりマインスイーパを一日中やってて帰る生活を送り、しかも彼らは長年勤務しているだけあってかなり給料があがっていました。
 正直言って自分が稼いだ金を奴らに吸われているという感覚はありましたし「あいつら全員首にしたら絶対この会社は良くなるのに」という話を若手同士でよくしていた記憶があります。

(中略)

 そんなに社内で存在感の無い人たちの寝言が、ネットで話題になっていることには、率直に言って悔しいですし怒りを覚えます。こんな人たちの目線で見たIBMがネットで有名になるのには我慢なりません。IT業界に身を置いたなら生涯勉強だろうが。それもやらないでダラダラくだらない仕事して不当に給料もらってやれ降格だクビだといわれてギャーギャー騒ぐんじゃねえよ。

http://anond.hatelabo.jp/20081201193012

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こうした記事の内容に対する共感が(当事者目線の限りではその共感を否定しないが)、おそらくこの10年の「新自由主義」と呼ばれる政策を国民的に支持させるベースになってきたと思われるので、ここで簡単な批判を加えておきたい。

もしこの文章が言うとおり、いまIBMが実際に進めているように、「社内で存在感の無い人たち」が首尾よくリストラされたとする。言うまでもなく、その人たちは失業者になる。この文章では、それを全面的に肯定している。だとすれば、失業給付や生活保護などの社会保障をかなりの程度拡大していく必要があるし、そのための税負担は、言うまでもなくこの文章の作者(たぶん)のような「優秀な労働者」に求める必要がある。

おそらく、この文章の作者はそれに対して「とんでもない」と言うのだろう。しかし勘違いしている人が多いのだが、市場競争の原理だと、一握りの優秀な人が目一杯働き、能力のない人はなるべく働かないのが「健全」な社会なのである。少し考えれば自明なことだが、もし「使えない奴」も労働市場にがんばって参加すべきだとするのなら、そのための経営者側の訓練・教育の労力とコストは膨大になる。それに普通に考えて、もともと「使えない奴」が「デキる奴」に変身する可能性は、ゼロではないせよかなり低い。経済の効率性から言えば、その人はさっさと労働市場から退場してもらい、最低限の生活を税金で保障させたほうがいい。

なぜ無能な連中のために税負担をしなければいけないかと言えば、その「使えない奴」をリストラしても、結局のところ生活のために労働市場に参入してしまうからである。こういう人たちに「生涯勉強」などというモチベーションがあるはずもなく、単純に「食っていく」ためにしか仕事をしない。そしてこういう労働者を、市場競争の最前線にいる現場の経営者が引き受けなければならない。たださえ忙しい経営者は、そういう「使えない奴」のための訓練・教育と、日々のつまらないミスの叱責に疲弊してしまい、結果的に経営の非効率を招くことになる。だとすれば、税金で最低限の生活保障を行ったほうが、ずっと「割に合っている」と考えるべきである。

勘違いしている人が多いが、資本主義社会では失業はむしろ「健全」な現象なのであり、生産力の低い無能な労働者は、さっさと労働市場から撤退してもらったほうがいいのである。マルクス主義が盛んな頃は、こうした理解はむしろ常識だったように思うが、今はどうも(特に日本では)忘れ去られてしまっているように思う。ヨーロッパが総じて失業者に「甘い」体制であるのは(むしろ厳然と働いているはずの移民を排除する動きのほうが強い)、市場原理から言えばむしろ当たり前すぎるくらい当たり前なのである。

しかし日本社会では、「優秀な労働者が税金を負担して、無能な人は大して働く必要がない」という意見が、どうしても通用しない。むしろ「使えない奴」を「がんばり次第で一流に」と叱咤激励する傾向がある。こういう人は言葉では「自由な市場競争」を唱えているかもしれないが、精神的には完全に社会主義的である。

大雑把に言って、ヨーロッパはこういう無能な人を公的な社会保障でカバーしようとする体制である。日本ではそういう体制が弱くて税金も低い一方で、企業の終身雇用制度でそれを代替してきたという歴史がある。日本の消費税がヨーロッパに比べてかなり低く済んできたのは、企業が社会保障の受け皿になってきた(少なくともそれが期待されてきた)からである。そういう歴史を知らない人にとって、「社内で存在感の無い人たち」は単なる穀潰しにしか見えないのだろう。

結論として上の文章を書いた人に言いたいのは、「社内で存在感の無い人たち」を失業者にする以上は、失業給付や生活保護の増額と、そのための税負担に積極的に応じなければ筋が通らないことである。「社内で存在感の無い人たち」は、仕事の付与を通じて有能な人でも無能な人でも社会参加が可能になったという、かつての日本の企業社会の伝統を象徴する存在である。今はこの伝統は、「まともに仕事をしていない人」たちに対する説教や叱責、そして排除という形でしか残っていないように思われる。