前回の続き。

竹中平蔵の議論を読むと、二の句が次げないような説得力もある一方で、どうも名状しがたい違和感が常に残る。それはたぶん、かつて「社会主義」に対して感じたようなものと、似た違和感である。

社会主義国家は、働くことに純粋に喜びを見出す労働者を前提にしていた。実際のマルクスの理論はそうではなかったと思うが、政治イデオロギー的にはそうであった。大多数の人間にとって、働くことは金銭を得る手段でしかない。会社が純粋に好きだという人がいたとしても、「働いてもいいけど給料はでないよ」と言われて、会社を辞めない人はいない。逆に、働かなくても生活に不自由のない水準の給料が出るのであれば、当然働かない。そして、それゆえに社会主義国家が破綻してしまったことは、いまや説明するまでもないことである。

竹中の議論も似たようなところがある。彼の議論を読んでいると、「生活のために嫌々働く」という、ごくありふれた人々の姿がない。彼の人間観は、まったくあっけらかんとして能天気なものである。「まじめで元気に働く納税者」か、「改革に抵抗する既得権者」の、どちらかくらいしか出てこない。今の日本では成果主義は緩やかに支持されているが、それは上昇志向によるものではなく、「俺はこんなに苦労して働いているのに・・・」とか、「上の連中はろくな仕事もしないで高い給与を・・・」という、ほの暗い感情に支えられたものと考えるべきだろう。別に当たり前のことだが、「改革」を支持する態度のなかにも、「これ以上負担が増えてほしくない」という、「既得権者」の心性が共存している。このような、人間であれば誰もが持っているはずの、嫉妬や躊躇、猜疑といった心性を全く見ようとしていない。この単調な人間観において、彼は明らかに社会主義的である。

いや、そもそも竹中は人間社会にさほど興味がないのだと思う。日本が海外からの投資額や経済成長率などで世界で第何位だとか、国民生活の改善の結果としてはじめて意味を持つようなランキングに過剰にこだわり、日本人の劣等感を煽ろうと努めている。ラディカルな改革を断行すれば海外からの投資が増えて、株価やGNPも上がると繰り返し主張する。怪しげな主張だが、彼の言う通りだしよう。しかし、それでもやはり何かが違う。繰り返すように、それがどういう投資なのか、そして国民の生活改善にどう循環していくのか、という話に全く興味を示していないからである。

普通の学者や政治家は口では綺麗事を重ねつつも、どうしても人間社会の現実に興味をもってしまう。だから、現実にさまざまな問題が発生すれば、当然「考えていたほど単純にはいかなかった」と反省せざるを得なくなる。私はどちらかと言うと、主義主張のブレがあまりになさ過ぎる人は信用しないことにしている。現実が刻々と変化しているのに、そして新たな問題が次々と生まれているのに主義主張が何も変わらないままでいるというのは、あまりに不自然かつ不誠実である。

言ってみれば、竹中の奇妙なほどの首尾一貫性は、人間社会の現実を相手にしてこなかったからこそ可能になっている。実際、彼は「格差社会」「貧困」の問題についてはほとんど何も発言していない。社会主義がそうであったように、竹中の経済政策も破綻すべくして破綻するだろうし、また実際そうなりつつあるように思われる。