竹中平蔵について

「世界不況」という言葉が飛び交うようになってから、竹中平蔵の言動に注目している。ここのところ、竹中は「市場原理主義」「格差社会の元凶」はては「アメリカに魂を譲り渡した売国奴」として、特にネット上では罵倒や人格攻撃に近い批判が多くなっている。私は、竹中がそんなわかりやすい悪人であれば話は簡単であり、そもそも批判している連中もかつては竹中に賛意を示していたのではないか、と若干弁護の気持ちも沸き起こっていた。

今まで竹中はテレビでの発言はよく聞いてきたが、その文章をまともに読んだことはほとんどなかった。今回、改めて彼の言説をネット上や本の立ち読みなどで斜め読みしてみたが、結論から言うと、全体として印象は以前よりも悪くなった。理解できるところも増えたのだが、疑問や違和感がそれ以上に増えたのである。経済の話は相変わらず理解できないのだが、普通に新聞を読んでいる程度の人間であれば常識的に考えておくべき話を、彼がいかに全く考えようともしていないかが見えてきたのである。

(1)経済力を一国単位でしか見ていない 
 竹中の議論には、「アメリカ経済は好調」とか、「韓国経済には勢いがある」などと断じた上で、「それに比べて今の日本は・・・」という論法が目に付くが、要するに経済単位が国家の中で完結しているのである。竹中の頭の中では、「アメリカは豊かだ」「インドは貧しい国だ」という昔ながらの物言いが、依然として強いリアリティを持っているらしい。しかし中国を見ればわかるとおり、現在一つの国単位で経済の活力や豊かさを判定することは、ほとんど自明ではなくなっている。一つの国の中で超先進社会と発展途上国とが共存している、そして先進国のグループの中でも富裕層と貧困層はほとんど外国人のように分裂している状況が普通にある。こういう今に始まったわけでもない現実を竹中は完全に無視し、経済競争をほとんど国家間競争と同一視している。大企業を優遇することで国民全体が底上げされるという論理も、竹中が経済力と国力を先見的に同一視していることから導き出されていると理解できる。

(2)投資の具体的な内容にはほとんど無関心
 海外からの投資を呼び込むために日本は規制緩和を徹底化しろという主張が繰り返されているのだが、読んでみて気づかされるのは、投資の具体的な内容の話がほとんどないのである。要するに、サブプライムローンでもM&Aでも、それが投資でありさえすれば何でもよいのである。だから、現在の日本社会がどういう投資を必要としているのか、それが本当に雇用や消費を生み出すような性質のものなのか、という国民の生活水準にとって根本的に重要な問題に関しては全く悩んでいる形跡がない。

(3)「世界では当たり前」という殺し文句が多い
 やはり一番ひっかかったのが、「規制緩和」「構造改革」などを正当化する際に用いられる、「世界では当たり前」という殺し文句である。言うまでもなく、竹中のような「新自由主義」と呼ばれる経済政策に対して批判や抵抗を示す政治家や学者は、世界中にそれこそ膨大にいるし、ヨーロッパ諸国が農業や都市計画で莫大や保護や強固な規制を行っていることは、あらためて説明するまでもない事実である。空港の外資導入は規制している国が明らかに多数派なのに、竹中は平然と規制緩和が「世界では当たり前」だと断じている。
 しかし竹中の主張はある意味で凡庸で、「日本は閉鎖的で、世界のなかで特殊であり、ゆえに世界から馬鹿にされている」という、19世紀に日本が西洋近代化を求めて以来、執拗に表明されてきた劣等感に過ぎない。特に日本人は、「みんなはこうしている」という言い方に非常に弱いところがあるが、おそらく竹中も「世界では当たり前」に日本人がいかに弱いのかを経験的によく理解しているのだろう。こうした日本人の特有の劣等感と同調圧力を利用する形で、「世界では当たり前」という常識的な知識で疑うことのできるはずの物言いが、まかり通っている結果になっている。

 最後にあらためて気づいたのは、竹中は『朝まで生テレビ』のような、反対派も大勢集結するような討論番組などにはほとんど顔を出していない。彼の顔を見るのは、だいたい「経済の専門家としてコメントを求められる立場」の場合だけである。少なくとも、竹中が他人と議論して自分の意見を反省しながら練り上げていく、というタイプの人物では全くないことは確かである。実際この10年の間、日本の経済と社会状況は相当程度変化したにも関わらず、竹中は自説を何一つ変えていないように見える。理論研究であればともかく、竹中のように政策に深く関わってきた人物が全く変化していないというのは、ある意味で極めて異常であると言えるだろう。