大野病院事件

 <福島・大野病院医療事故>帝王切開判決 無罪に医師、安堵 女性の父、目閉じ

 加藤医師は初公判から「切迫した状況でできる範囲のことを精いっぱいやった」と無罪を主張しつつ、謝罪も口にし、今年5月の最終意見陳述では「できる限り一生懸命行ったが悪い結果になり、非常に悲しく悔しい思い」と述べていた。

 一方、死亡した女性は出産後、対面した長女の手をつかんで「ちっちゃい手だね」と声をかけたという。その後胎盤剥離(はくり)を経て容体が急変し、出産の約4時間半後に死亡した。

 渡辺さんは判決を控えた今月12日、毎日新聞の取材に応じ、公判で繰り返し謝罪した加藤医師に対し「わびるなら、娘が生きている間になぜ医療の手を差し伸べてくれなかったのか。絶対許さないという気持ち」と怒りをあらわにした。

 娘の死の真実を知ろうと、医学用語をはじめ、帝王切開手術の知識を医学書やインターネットで調べ、ファイルにまとめた。医療事故を機に生活は一変し、「笑顔がなくなった」と語る。孫に「母親」を意識させたくないと、家族連れが集まる場所には連れ出さないという。

http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/life/20080820dde041040010000c.html?C=S


オリンピックであまり目立たなくなってしまった大野病院事件は、通常の治療行為を行っても医者としての人生を棒に振るほどの過大な罪や責任を問われる可能性を強めたということで、「医療崩壊」に拍車をかけた事件として報道されている。マスメディアやネット上の評価をみると、おおむね無罪判決を妥当かつ当然のものとして評価している。

私も無罪判決が妥当だとは思うが、この事件が明るみに出した問題、つまり第一には医療従事者とくに小児科や産科医が慢性的に不足しているという問題、第二には患者とその家族の病院に対する要求や不満・不信が高まっているという問題は、無罪判決によっては何一つ解決されないように思う。

第一の問題は、小泉政権以降の医療費抑制政策のしわ寄せというだけではなく、リスクの高く、不幸な結果になった場合に患者と遺族が激高しやすく、そしてその割には給料もさほど高くない大病院勤務を避けて、比較的軽度な病気だけを扱う診療所の開業にシフトしていると言われている(医者の数自体は増えているという)。今回の事件は、無罪判決になったとはいえ、病院の勤務医が苦労が多い割に報われないというイメージを一層強めることになったと思われる。

第二の問題について、ネット上の意見のなかには遺族の、「大野病院でなければ死ななかった」「ミスの責任をとってほしい」という非難や要求を戒めるような意見も散見された。私も基本的には遺族の非難・要求は行き過ぎだとは考えるが、そうした過度の非難・要求を正当化している心情や論理が何であるのかについて分析を加えていく必要もあると思う。そうでないと、病院と医者に対して強い不満を表明する患者とその家族に対して、「モンスターペイシェント」といった無意味なレッテルを貼るだけに終わってしまうからである。重要なのは、そうした不満や不安を醸成している社会的な背景や構造であって、彼らが「わがまま」になったことに求めるべきではない。

考えてみれば、今ほど国民保険制度が完備しておらず、病院という医療の専門機関そのものが発達していなかった昔であれば、病院はどうしようもなくなった最後の段階でかかるものであった。だから患者が不幸にも死亡した場合でも、「お医者さんでも手に負えなかったのだから仕方がない」と納得できたのである。しかし今は、というか20年も前から、「具合が悪くなったら病院に行く」時代である。日本では医療費が国際的に見ても安いということもあり、まるで仕事や学校に行くように毎日のように病院に行く高齢者は依然として少なくない(最近病院に行く人は少しながら減っているそうだが、私は他の「居場所」として公共図書館が増えたせいだと推測している。1997年から2007年にかけて661館増えているhttp://www.jla.or.jp/statistics/index.html)。

こうした、日常社会における病院依存が高まっている時代になれば、当然ながら病気に関するすべての責任が病院と医者(しばしば看護師)に向けられるようになることは必然である。その一方で、「お医者さんに任しておけば」という昔ながらの素朴な医者信仰が根強く残っており、またそれに応じて医療費が高くなっているわけでは決してないし、消費税や保険料を上げようとすれば「まず厚労相の無駄を省け」というバッシングへとすりかえられ、政治家もそうした声に同調してしまう。結果的に、医療業務は膨大になっているにもかかわらず、個々の医療の質は低下せざるを得ないことになり、患者とその家族への対応の多くも機械的かつ無反応になって、しばしば彼らの神経を逆なですることになる。

「医療ができることは完全ではない」という、医療の不確実性を国民に広く認識させることは、「医療崩壊」を食い止める第一歩であるとは思う。しかしそれがうまくいくのは、あくまで不確実性を抵抗なく受け入れさせるための社会的な条件や心理的な余裕が存在している場合であると考える。そうした条件や余裕がどうやって構築されうるのかは、かなり難しい問題だけれども。