消費者主権

太田誠一農林水産大臣の、「日本の消費者はやかましいから・・・」という「失言」と言えるどうかというほどの発言に、政治家の「失言」をことのほか喜んで報道する大手メディアはともかくとして、ネット上でもまじめに噛み付いている人が少なくないのには驚いた。日頃斜めに構えた文章を書くような人が、「所詮、国民の血税でヌクヌクと日々を過ごし、本当の消費者の声を聴かない、聴こうとしない」などという、優等生的な怒りを表明していることが少なくないのである。

私はというと、別の側面からこの発言の問題性をとらえている。おそらく太田農水相は、賞味期限から産地表示までに神経質なっている近年の消費者のあり方が、明らかに「行き過ぎ」だと考えている。それはごく健全で常識的な感性である。彼の大きな間違いは、そうした感性を政治的な言語に鍛え上げる努力をすることなく、結局のところ消費者の要求は中身は何であれすべて受け入れる必要がある、という通俗的な消費者主権論に居直っていることである。太田農水相は、おそらく信じてもいないであろう消費者主権論を政治的立場から「あえて」肯定し、それに対する違和感は「やかましい」という乱暴な言葉でしか表現できていないという状態なのである。

これは消費者主権という考え方が、今の日本社会では政界からネット世論にいたるまで、ほとんど批判すら許されないような自明の前提になっていることを示している。しかし今の日本では、消費者主権の問題点こそが議論されていなければおかしいはずなのである。太田発言でそうした議論が少しは出てくるかと期待したが、全くと言ってよいほど出てこなかったのはさすがにがっかりした。

消費者主権の問題点大きく言って二点に集約される。第一に、2000年代に入って社会問題化した「クレーマー」に論理的な正当性を与えてきたことである。第二に、安価で高度なサービスという消費者の要求に応え続けることが、同時に働く側の低賃金化と長時間労働を促進してきたことである。クレーマーも労働者の低賃金化も個別では大きな社会問題として認識されているが、その根っこにある消費者主権という論理は問題化されてこなかった。「お客様のことを第一に考えられず、自分の給料に不満をもつような社員はウチに要らない」ということを真顔で語る経営者が本当にいるが、消費者主権という考え方は、結局のところ低賃金長時間労働によるコストカットを要求しているだけの、こうした経営者の理屈を正当化する。

実際、今の日本社会では消費者主権が次のような負のスパイラルを引き起こしていると考えられる。つまり、消費者が安価で高度なサービスを要求する→それに応える形で生産者側の賃金低下と長時間労働が促進される→いざ生産者が消費者側の立場になった際に物価の高さとサービスの不十分さへの不満がますます高まっていく、というものである。要するに、「俺は高い給料を貰っているわけでもなく、『お客様のために』を心がけて毎日必死に働いているのに、あの店のやる気のない接客態度は何だ」というわけである。

こうしたクレームによって、客観的にはサービスは向上するのかもしれない。しかし少し考えればわかるとおり、一般的なサービスの水準が向上すればするほど、日常社会のなかにそれまで感じなかった「サービスの不十分」さが目に付くようになり、接客の際にちょっと不機嫌な顔をしていたり、賞味期限1時間前の商品を売っていたというだけで、「俺をなめているのか!」という感情が抑えきれなくなってしまう。いずれにしても、20年前であれば誰も問題にしてこなかったようなことに、現在は一々「ムカついている」状態なのである。

消費者主権のすべてが間違っているわけではないにしても、消費者は同時に労働者でもある(もちろん主婦は例外)というごく当たり前ことさえ思い至らずに、消費者主権の論理ばかりが振りかざされる現在の状態は明らかに批判すべきものである。