究極の弱者

加藤容疑者に関する報道を見るにつけ、彼は現代社会における究極の「弱者」であったのではないか、という感を拭えない。

従来弱者というと女性、外国人、身体障害者、あるいは何らかの出自で差別を受けている人々であった。こういう人々が社会的な困難に直面すれば、周りの人は「世の中の不当な差別が原因だ」と直ちに理解し、(現実には依然不十分だとしても)様々な支援・救済の手が差し伸べられる可能性がある。なにより当事者自身が、「弱者」というカテゴリーの中に入ることによって「差別は社会の問題であって、本当の自分はまっとうな人間だ」であると考えることができる。また周囲の人々も、まず「差別的な人間」だとは思われたくないので、そのような考え方をしようとする。

しかし加藤容疑者は、どこにでもいる普通の、しかも比較的教育熱心な日本人の家庭に育った男性であり、しかも地方の伝統進学校出身である。いわゆる「勝ち組」になるための社会的な機会や資源はいくらでも周りにあったように見える。このような人間が厳しい人生上の困難に陥ったとしても、それは「弱者」ではなく、どこまで行っても「努力が足りなかっただけ」としか見なされないことになる。おそらく彼自身も、「○○高まで出てこんな有様だから俺は救いようがなく駄目だ」と、自虐的に考えていたのではないだろうか。

しかし前にも書いたように、今は有名進学校や一流大学を出ても、派遣社員やフリーターといった低賃金の下層労働者になるなどということは、かなりありふれている。むしろ、教育システムの肥大化と産業構造・労働市場の変化を考えれば、そういう人が一定数いなければおかしいのである。つまり、従来は「男性日本国民」という「強者」に位置づけられて、安定した正社員の地位を当たり前のように享受できると周りも自分も期待できたような(相対的に学歴の高い)人が、女性のパート労働者や発展途上国から来た外国人労働者と、同じ待遇・賃金で仕事をするという風景が一般的になっているのである。

女性や外国人の労働者は、1980年代以降日本社会における「弱者」として認知され、彼女らに「今の状況は自分の責任」と言い放つことは、明確に「差別」だという理解が(差別的な人達の間にも)共有されるようになっている。

問題は加藤容疑者のような立場の人間である。彼はほとんど無権利状態で、1年先の生活の見通しもない働き方をしていたという点では、明らかに日本社会における「弱者」である。しかし彼は、「弱者」として周囲の同情や支援を受けるような社会的な指標を全く持たず、それゆえに「弱者」である立場を社会に訴えるための言葉をも何一つ持っていなかったのである。また彼自身、そうした意思を最初から放棄し、掲示板上で露悪的で自虐的な言葉を書き連ねるという、ますます世間の同情から遠ざかるような態度を取っていた。

そういう立場の人が受ける人生上の困難は、全て「努力が足りなかった」か、さらには「元々の人格に欠陥がある」としか理解できないことになる。たぶん彼もそのような理解を内面化していた。「自分の問題を社会のせいにしている」と批判している人がいたが、それは全く違うと思う。本当に社会のせいだと考えていたなら、つまり今の人生上の困難が自分の外部にある経済や政治の問題であると理解していたなら、あんな行動は無謀で馬鹿馬鹿しいという理性が働いたのではないだろうか。

最近の報道の中では、労災の根拠とならないよう契約書すら書かされない派遣労働者の実態があらためて浮き彫りになっているが、そのようなことを許してきたのは、われわれが非正規雇用層をどこかで「まっとうな働き方をしている人間ではない」と見なしていたところ(特に年長世代において)が、どこかあったからではないか。かつて女性や外国人も「差別」に対して声を上げた当初は、「身勝手だ」「自意識過剰だ」という非難を受けてきた歴史があることを忘れてはならない。そしてその抗議行動も、しばしば世間の眉をひそめさせるような暴力的な形を取ったのである。非正規雇用層を「差別」の問題として取り上げる視点がますます必要になっている。