学校の秀才から下層労働者へ

今回の秋葉原の事件では、「格差社会」(時折「オタク」)がキーワードになっていることが多いが、むしろ私は加藤容疑者が地方の伝統進学校出身であったという点に注目したい。

一昔前であれば、「名門の○○高出身」というだけで(特に田舎では)将来が困ることはまずなかった。もちろん若い世代は、現在はそこまで学歴が大した力を持っていないことはよくわかっているが、親である年長世代は決してそう見ない。おそらく加藤容疑者に対して、両親を含めた周りの大人たちは「○○高出身のくせに結局派遣社員か」と見ていたはずであり、また彼自身そうした視線に敏感になっていただろう。親戚の間では「評判のよい、できる子」と見られていたそうであるから、そうした評判を完全に裏切っている現在の自分の状態がなおさら惨めに感じられるということになる。

かといって、加藤容疑者は決して「落ちこぼれ」なのではない。彼は高校生活が肌に合わなかったらしく、4年制大学の受験も失敗するという挫折を経験し、理工系の短大に進学している。ただ細かい挫折はあるにしても、大筋では社会が要求する理工系の技術職員の人材育成のコースを順当に歩んでいると評価してもよいくらいである。

加藤容疑者は、派遣先によると「仕事は真面目なほうだった」と評判はよかったというが、彼の携帯での掲示板の書き込みには自虐的な内容が延々と書かれている。本当に高い評判を得ていれば、そうしたルサンチマンが蓄積されるはずがない。このことは、「仕事は真面目」であるということが、職場における彼の業績評価や威信に全く反映されてなかったことを意味している。そもそも学校社会の中でさえ、「真面目」はどこかで「ダサい」に通じていたはずである。それは携帯掲示板の中で、彼が中学時代の自分に対しても否定的に評価していることからも理解することができる。

思うに、過去に学校社会の優等生だったという加藤容疑者は、「与えられた仕事を真面目にこなしていれば・・・」という素朴な考えがどこかにあったがゆえに、かえってルサンチマンが蓄積されたのではないだろうか。「不真面目」な人間であれば、「こんなのやってらんねー」の一言でさっさとやめていっただろう。

ここで見えてくる問題は、一定程度の教育・人材育成のキャリアを積んできた、特に道を踏み外しているとも言えない(少々活力に欠けた不器用な)若者の多くが、不安定で低賃金、社会的威信も低い職場を強いられていることにある。学校の秀才が下層労働者(といっても「世界のトヨタ」系列の工場なのだが)に、決定的に大きな過ちを犯したわけでもなく容易に転落するという、現代社会にありふれた風景の一端がこの事件からは見えてくる。