生存と差別

再び書くが、私は「格差社会」の根本の問題は「生存」ではなく「差別」であるべきだと思っている。特に30歳を超えた「フリーター」とよばれる人々が悲惨なのは、生活が大変だということもそうだが、アルバイトでしか生計を立てていないことがイコール「社会人でない」、つまり「まとも」な生活や人生を送っていないとみなされていることにある。こうした侮蔑的・差別的な視線は、与党と財界の「自己責任」の論理と、年長世代の「仕事なんか選ばなければいくらでもある」と無邪気に考えている人々という二つのベクトルがあるが、こうした差別が「フリーターなどに財政的な支援する必要はない」という論理を正当化しているのである。支援がほとんど実質的な効果のない職業訓練に偏りがちなのも、機会の平等という理念という以前に、「フリーターはスキルを身につける努力をしてこなかった」という、差別的な理解が広く共有されているからである。繰り返しになるが、ある人が努力をしてきたかどうかなど、当人と当人を知る身近な人しか知りえないのであり、非正規雇用層一般を「努力が足りない」と見なし、しかもそれが政府の政策にまで反映されるとしたら、それは社会的な差別以外の何者でもない。

貧困をめぐる社会運動は生存に軸足を置いているが、やはりそれと同時に差別を問題にしなければならない。というのは、もし「フリーター」と呼ばれる人々に、彼らが求める水準の生活保護社会保障が充足されたとしても、安定した正社員層の、「なんで努力もしていない連中に俺たちの税金が・・・」というルサンチマンがむしろ募っていくだけだからである(これは「日本社会に溶け込む努力もしていない外国人なんぞに・・・」という人種差別の理屈と紙一重である)。何度も書いてきたことだが、マックやコンビニの店員が「まもとな社会人」として認知されるべきだという規範的な問題が、生存の問題と同時に語られなければならない。両者は密接な因果関係にあり、一方だけを切り離して論じると非常に危険であると考える。今の「生存」を掲げる運動には、「小難しい規範的なことなど生存が満たされてから考えればよいこと」という雰囲気を感じるが、これは全く間違っていると言っておきたい。

今回の秋葉原の事件がこの問題に関係しているのかどうかわからないが、もしそうだと仮定としたとして、犯罪心理学者とかいう肩書きの人が言っているような「自己顕示欲」「不満の吐け口」という無内容な解釈ではなく、私はもっとスレートに、秋葉原に歩いているような「普通の市民」(実際そうではないとしても)を憎悪していた可能性のほうが高いと考えるべきである。つまり、「フリーター」や「ニート」と呼ばれるような人々にとっては、「普通の市民」こそが日々侮蔑的・差別的な視線を自分たちに向ける当事者であるがゆえに彼らを攻撃する、と考えるほうが素直に理解できるように思われるのである。

なんで職場の上司や政治家を攻撃しないのかという人がいるかもしれない。しかし、職場の上司や店長に不満を言ったところで、彼らはへたするとバイトの時給以下の長時間労働をしていることが往々にしてあり、高い給料を貰っている企業の役員も株主や海外の投資家が彼らの地位や生存を左右する存在になっていて、労働者に対しては「やる気がないならやめればいい」の一言で終わりである。政治家にしても、昔のような世の中の権威や空気全体を支配しているような存在ではなく、あくまで「政治の専門家」という以上の風格は全くなくなっている。つまり、企業家や政治家を攻撃したところで、世の中の空気ががらりとかわってくれそうなことはない。そのことは彼らに暴力的な攻撃を行ってたとしても、既存の「普通の市民」(特にそれを代弁しているつもりのジャーナリストや学者)から同情論が多く語られていくであろうことを想像すれば十分である。

ちなみにこういう事件が起こると、「中学生の頃は・・・」みたいな犯人の生い立ちに関する報道が洪水のように出てくるが、事件を理解する際に意味があることだとは思えない。生い立ちの描写を通じて社会背景が問題化されればよいのだけど、今の報道の仕方は完全に「性格の問題」に落し込んでいる。