生存よりも差別解消を

前にも書いたことだけど、非正規労働者層に対する「努力が足りなかったのでは?」という声が、以前よりも強まっている気がする。一例として、「雇用形態格差「非正社員の給与を上げて是正」49%http://polls.dailynews.yahoo.co.jp/quiz/quizresults.php?wv=1&poll_id=2059&typeFlag=1」などに見られるが、「是正する必要がない」が32%はネット上の調査とは言え正直驚いた。連日「格差社会」と非正規雇用層の悲惨な生活実態をニュースや特集番組で耳にしているはずなのに、それでも「今のままでいい」と考えているのである。

「是正する必要がない」という人の意見を読むと、要するに「正社員の俺は過剰な責任を負わせれて苦労して働いているのに、気楽に働いているあいつらと一緒の給料なんてとんでもない」というわけである。最近一部の活動家による「生存」をスローガンにした運動が盛んだが、そうした動きに対する反発の感情きも高まっていることを考えると、私はその前に「差別」を主題化すべきだと考えている。

もう言うのも疲れるくらい自明なことだと思うが、非正規雇用層が拡大したのは、団塊世代を中心とする正社員層の人件費コスト圧力の増大と、IT関連産業や外食産業など「いくらでも代わりがいる」マニュアル化された仕事が一般化したという、1990年代以来の社会経済的な構造の変化によるものである。そのように非正規雇用層が現在の日本社会を支えている分厚い労働者階層になっている以上、「非正社員=努力しなかった人」という理解は、単なる社会的な蔑視や差別の一種でしかない。非正社員層が「努力」「苦労」しているか否かというのは一般的に言える話ではなく、そもそも当人を具体的に知っている家族や教師・友人しかわからない(「努力が足りない」という権利があるとしたら彼らだけである)のであり、「非正社員」という属性だけをつかまえて「努力が足りない」「社会性が欠如している」と断じるのであればそれは差別である。

そもそも、「正社員/非正社員」の区別の問題は、単なる給料の問題ではない。日本社会では、それは「社会人/非社会人」の区別と一体化しているのであり、実際国民保険や年金制度は(最近ようやく考慮されるようになったものの)依然として「正社員」を基準としたものである。正社員層の超過労状態も社会問題となっているが、人々がそこまでして(特にこだわるべきとも思えないような)仕事にしがみつくのも、「非正規=非社会人」の地位に転落したくないという気持ちが強く働いているからに他ならない。

要するに重要なのは、「まだコンビニでバイトしかしていないのか?将来まじめに考えているのか?」という声を一切なくすことなのである。私に言わせれば、それは人種や出自による差別と同じ類の差別なのである。実際、親殺しの事件がこうした言葉をきっかにしていることがよくあるが、正社員でないことで受ける社会的な蔑視には当人が最も敏感なのである。本当なら、「自分これといってとりえもないし、一生コンビニで働いてもいい」という言葉が普通に言える社会でなければおかしいのである。

こういう差別を少なくとも公的な制度レベルで完全になくさなければ、たとえば貧困層への「生存」のための再配分を実行に移したとしても、非正社員層に向けられる視線は改善しないだけではなく、むしろ「俺が懸命に働いて得た給料があんな努力もしてない連中のために……」という不満がますます増大し、そうした不満を代弁する政策が一層力を持つようになるだけであると考える。・・・頭がまとまらなくなったので、また今度。