中国問題など存在しない

最近中国に関していいニュースを聞かないくらいだが、私は敢えてこれを「中国問題ではない」と言うことにしたい。「中国問題」というのは、「中国に特有の文化や国民性に由来する問題ではない」という意味である。

冷凍餃子問題について言えば、前にも書いたように、食品の生産や加工が海外で行なわれるようになれば、日本と同水準の衛生管理制度を隈なく行き渡らせることが困難になるというだけの話である。それに日本で「健康」というのは「安全な食品をバランスよく食べる」ということかもしれないが、中国のように分厚い貧困層を抱えている国では、多くの国民にとって「健康」というのは「食べ物を腹いっぱい食べる」という以上のことを意味しない。それに加えて、中国の農業は市場競争からの保護も弱く、生き残るためには「大量に安く」売らなければならないので、自ずと「食品の安全」ということは「大したことではない」ということになる。当たり前だが、公害問題を最も深刻に蒙っているのは当の中国人自身であり、それでも多くの国民は「食えないよりはマシ」だと思って鷹揚に甘受しているのである。「中国問題ではない」というのは、外国で貧困層の多い地域に食糧生産を委ねれば多かれ少なかれ発生する問題であるということであって、「中国でしか有り得ない問題」ということでは決してないということである。

考えてみれば、1990年代以前は日中間の問題は、だいたい「日本問題」として理解されることが多かった。つまり、歴史認識問題がこじれる責任は「侵略された中国人の痛みを理解できない」「侵略の歴史そのものをきちんと知らない」日本人にあるというものであり、ニュースを見ると中国の中学生が日本の「侵略の歴史」をきちんと学んでいて、日本の若者は何も知らなくて困ったものだと報道されていた。今考えるととんでもない内容だが(当時もそう思っていたが)、歴史認識問題が「日本の意志と努力」でどうになかる問題では決してなかったように、今の日中間の問題も「中国の意志と努力」でどうにかなるものではない。中国に対する批判は必要だが、前にも書いたように「中国人が目の前にいて、彼らを説得するつもりで」行なうべきである。ところがテレビや論壇誌の論調は、相変わらず日本人同士で中国の悪口を言い合っているという状況から一歩も出ていないという以上に、普通に「政治問題」や「経済問題」で考えるべきことまで「中国問題」にして、日本人同士の共感によるつかの間の安心感を得る一方で、自ら問題の解決からますます遠ざかっているように思われる。例えば冷凍餃子問題について、中国一般を問題にしても何も前に進まないという当たり前過ぎること、つまりあくまで経済構造や衛生管理政策の問題であるという普通のことがなかなか指摘されないというか、声が大きくならないのである。

前にも書いたことだが、冷凍餃子問題を含めて、一旦「中国」という眼鏡を外して問題を評価・分析していくことが必要である。実際、我々はアメリカに対しては自ずとそうやっているはずが(例えばアメリカの医療崩壊アメリカに固有の文化や生活様式の問題ではなく、普通の社会問題として理解されているはずである)何故中国に対してそれができないのか不思議でならない。