情けは人のためならず

前も少し書いたが、「情けは人のためならず」ということわざは、「情けをかければゆくゆくは自分にはね返ってくる」と繰り返し「解説」されきたにも関わらず、「情けは人のためにはならない」という「誤解」が一向に止むことがない。私自身も、ある時期までこうした「誤解」を平然と行なっていたのだけれど、「自分にはね返ってくる」というのが、日本人にとってなかなかピンとこないことは確かだろう。

最近「『フランダースの犬』で感動しているのは日本人だけ」というニュースが少し話題となり、それは日本特有の「滅びの美学」にあると解説されていた。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071225-00000302-yom-ent しかし、私は「美学」というよりも「情けは人のためならず」の「誤解」と少なからず関係があるように思われる。

おそらく外国人が『フランダースの犬』に最も違和感をもつのは、「なぜそこまでかわいそうな子供を助ける人がいないのか?いくらなんでも不自然すぎる」というところだろう。考えてみれば確かにおかしいのだが、ではいきなり善意に満ちた大富豪が現れて子供を助けたら、我々日本人はもっと違和感をもつつはずだ。実際、例えば中国映画などを見ると、こういう「有り得ない」ことが普通に描かれて、当の「かわいそうな人」自身も「情け」を声高に求めて必死になる姿さえあるが、日本で同じ表現を行うことはほぼ不可能だろう。

中国で「人情(レンチン)」というと、人々の間の交流やネットワークという含意があるが、日本の「人情」という言葉にはこうした外に開かれた意味はあまりなく、「心情」とほぼ同義である場合が多い。簡単に言うと、日本で「情」というのは場や話題を共有しているにいる人同士の「共感」であって、その共感を共有していない外部の人には届かないものである。日本で「良識派」の政治家や学者などが、「誰にでも開かれた社会を」「異質な他者と共生できる社会を」と訴える時に、そのスローガンとは裏腹に非常に強い「同調圧力」を感じるのは私だけではないだろう。

フランダースの犬』も、読者や視聴者どうしで(物語の中の他の登場人物はよく知らないことになっている)少年の生い立ちや苦労といった文脈を共有し、いかに「かわいそう」であるかを「共感」することによって成り立っているというところなのだと思う。こうした内向きの日本的「情け」は、人々の間の関係が安定的かつ持続的で、場や話題を共有しているという前提が確保できるうちはよいが、今みたいに社会の流動性と生活の個人化が高まると維持できないというか、「共感できない」=「空気が読めない」という不満や疎外感を強まりがちになるということなんだろうか。・・・・また支離滅裂になってきたので、また今度に。