既得権

「既得権」という言葉がニュースを賑わすようになったのは、90年代後半くらいだろうか。「改革」を連呼する政治家や経済学者が、敵対的な政治家や成果の悪い官僚組織や企業経営者を「既得権にしがみついている」という名の下に一刀両断し、政治家は誰もかも「しがらみのなさ」を賢明にアピールしていった。最近「格差社会」が問題にされるようにつれて、流動性の高い市場競争社会に対する不信や不安が広がっているが、「既得権に胡坐をかいて・・・・」という批判は一向にやまないというか、むしろ強くなっている。こないだの佐世保の銃乱射事件でも、「警察官が保身に走って対応を怠った」という解説が真面目に行なわれていたのには、さすがに唖然とした。

少しでも社会について真面目に物事を考えたことにある人なら、「既得権」批判が何の意味もないことはすぐわかるはずである。最貧困層以外のほぼ全ての人が、必然的に「既得権を守る人」に当てはまるだろう。そうでなければ、堀江貴文のように「人生はギャンブルだ」などと考えている人であり、こういう人々で構成される社会にほとんどの人はまず耐えられないだろうし、また欲してもいないに違いない。ところが、「大組織にガッチリ守られている」と呼ばれても充分よさそうな大手新聞の記者や大学教授までが、「既得権にしがみついて・・・」云々で官僚や政治家を批判していることがある。「既得権」批判は必然的に自分にも跳ね返ってくるという当然のことを、なぜか誰も考えないようにしている。

私が考えるに、こうした底が浅すぎるほど浅いはずの「既得権」批判が、いっこうに止まない理由はおそらく二つある。

一つは日本社会特有の問題で、多くの人々は職場や身内の中では「無償の奉仕」を当然のようにしているので(「サービス残業」という極めて日本的な問題が特にそれである)、それを外部、特に「税金を預けている」政治家や官僚も当然できるものだと思ってしまうことである。もちろん政治家や官僚も、職場や仲間の中ではおそらく「無償の奉仕」を日常的に行い、自分の「既得権」を磨り減らして苦労しているつもりかもしれないが、実態がどうであろうと、外から見ると必然的にこれは「身内だけしか考えていない」ようにしか見えないことになる。特に現代社会では、安定した職場や組織がかなり弱体化しているので、官僚組織のような安定した職場で「無償の助け合い」をすればするほど、ますます「既得権を守る」ような振る舞いに見えてしまうのである。

全くの余談だが、「情けは人のためならず」という(おそらく中国に由来すると思われるのだが)ことわざが、どうしても「下手な情けは人をだめにする」と解釈されてしまうのは、おそらく「情けが自分に返ってくることなどを期待するのはよくない」という日本的な発想がある。ある問題が「既得権」の名の下に批判されやすいのも、日本では「既得権」をすり減らすような「無償の奉仕」が素朴に信じられているからであるように思われる。

もう一つは、下向きの「平等化」が進んでいることである。階層問題の専門研究によると、経済的な格差と言うのは実は統計的には若干ながら縮小傾向にあることが通説らしいのだが、これはもちろん「景気回復」による底上げなのでは全くなく、今まで「中間層」と呼ばれたきた正社員層の賃金が下がり、非正規層との格差が「縮小」しているからだというのである。こういう時代において「既得権」というのは、「俺たちがこんなにひどくなっているのに、まだ落ちてこない奴らがいる」ということを意味している。「既得権」で指弾される対象が、親の遺産で食っている大富豪などではなく、どう頑張って出世しても年収1000万にも届かない官僚で、そこで批判される「特権」も従来ならどこの企業にでもあったような慣行であるのはいかにも象徴的である。要するに、下を底上げするのでも、高いところにいる上層を打倒するのでもなく、「ちょっと上」を引きずり下ろすことで束の間の「平等化」を達成しようとする。

なんか全然議論が破綻しまくってしまったが、上から下まで「俺はこんなに苦労している」「あいつはあんなに楽をしている」という幻想に取り付かれている人が多過ぎるような気がする。社会保険庁の問題では「民間だったら徹夜で作業して・・・」などと批判している人が何人もいたが、これは日本社会の中で、従業員を徹夜で、しかもほぼ無償で(「お客様のため」という名目で)作業させる職場を当たり前だと思っている証拠である。「のんびりと仕事する」ような風景は、ほとんど憎悪の対象になっている。今は「税金を預けている」という名目で叩かれやすい官僚組織だけだが、これが社会全体のあらゆる層に広がっていかない保証はない。