最近の中国批判

最近中国が何かと話題である。食品安全、環境汚染、私的財産権、ナショナリズム・・・・。「北京五輪があと一年」に関する報道でも、期待や希望よりも問題点を取り上げるのがほとんどであった。

中国に対する批判的な論調は、もちろん仕方のないところもあるが、特にテレビの報道などに接するたびに不愉快になる。もし中国を批判するのであれば、目の前に中国の国民がいるつもりで、相手を説得するつもりで批判しなければならない。ところが中国における「ひどさ」を、周りの共演者と共感するだけで終わってしまっているのが、ほとんどである。それは批判ではなくて、せいぜい悪口や陰口に過ぎない。ネット上では前々からひどかったが、最近はテレビや新聞でもこの傾向が出始めているような気がする。

批判はよくないと言っているわけではもちろんなく、中国という隣人に対する「心配」や「不安」を、仲間内でグチグチ言い合っている状況から一歩も出ず、「清潔」で「安全」な環境をさも当たり前のように消費している自らの立場を再確認して安心するだけに終わっているのが問題なのである。そして、いざ相手を目の前にしたときには、結局何も言うことはできないし、また言うつもりも実のところ最初から全然ない。教師や上司への悪口や愚痴を言い合っていることと、何ひとつかわらない構造が今の中国批判にはある。そして、悪口の対象となっている教師や上司の性格や態度が一向に改まらないように(むしろさらにひどくなることのほうが普通である)、今のような批判で中国の態度が改まっていくことはまずあり得ない。アメリカの高圧的で独善的な批判も非常に不愉快で問題が多いが、少なくとも相手と真正面からぶつかって、中国をなんとかよい方向に変えていこうという姿勢はあるように感じられる。

北朝鮮報道でも顕著だが、相手を低レベルの存在であると貶めることによって、つかの間の安心を獲得しているようなところが今の中国報道にはある。今の中国において指摘される問題のほとんどは、中国に固有のものというよりは、近代化・グロバール化・都市化といった現代社会において普遍的な問題であることは明らかなのに、なぜかひとしなみに「中国問題」へと落とし込んでしまい、日本とも共有しうるような様々な問題を見えなくしているように思われる。だから最近、いっそのこと中国という単語を新聞やテレビ、ネット上から、一旦全て消し去って欲しいと感じることが多い。